単純な話だ。
彼が狩られる者、私は刈る者、ただそれだけだった。
朝方の日当たりの悪い室内はまだまだ空気がひんやりとしていて、思わず身体が震えた。その廊下は静かに長く、そして私を迎えていた。

―最早日課になってしまった、彼との逢瀬。

まるで無機物のように変化の無い彼が始めて変化した『私』と言う存在。
それから担当になってはや幾年が経ったのか、記憶することすら滑稽だ。

彼が有機物になる時だけ、私は無機物になる。
そうして対峙しない事には、私は彼のお気に入りではいられないのだ。

やがて『彼』のいる部屋の扉が姿を現す。
その扉のノブに手を掛ける前に立ち止まって、準備をする。

3。

2。

……1。


重厚な扉の音と共に、私は彼の『私』になる。

無機質な壁。無機質なイス、そして透明な壁を隔てた向こうの端正な顔立ちの彼。パーマをかけたブラウンのショート、太陽光とは無縁の白い肌。
白の囚人服に身を包んだ姿はさながら天使のようだ。

『彼』は微笑む。
人を殺し続けた、『彼』が微笑む。

しばらくの沈黙を破って、彼が静かに口を開いた。

「何を」

脈絡のない無機質のような会話にももう、慣れた。

「考えてるの」

「何が」

彼は私の瞳を捕らえると、嬉しそうにニッコリと笑い、私が今入ってきた扉を指差して言った。

「僕の部屋の前30a、ドアノブに手を掛ける前に貴女は3秒溜める。何を、考えてるの?」

教えてよ。そういう彼の口元は引きつっていた。

「教える必要なんか、ないわ」

「冷たいね」

「ええ」

2度目の沈黙。その瞳はただ無表情な私を映す。彼の瞳に映る私はとても人間とは思えなかった。やがて沈黙の中ふっと息を吐き出した彼がはじけたように笑い出した。

「ふはははっ! あはははっ! ははっ! …っ君はいいね。とてもいい」

「そう」

「僕はそんな君が好きだ。僕を拒みもしない、受け入れもしない、中途半端な感じ。俺を生きていると感じさせてくれる」

「そう」

「なぁ忘れないで。そんな君も好きだけれど、有機物の君も好きなんだ。感情豊かに僕を追い詰めた君。あの激しい君も好きだよ。あの激しい感情を受け止める快感がたまらなかった」

「だから僕は君の手助けをするんだ。僕以外の虫けらが君を殺すのは許せないから。いいかい」

―君を殺すのは、僕なんだからね。

―そして僕を殺す権利があるのは、君だけなんだ。

「さあ、今日はどんな虫けらのやらかした事件だい?」

「これよ」

そして彼と私の唯一の通気口の前で、私は分厚い書類をバサリと落としつけた。その白の束を追い掛けて、彼のゴールドの瞳がキョロリ、と妖しく動く。
流石に壁を隔てたら渡せばしないので、いつもここで自分があらかたを朗読して説明してやっているのだ。
そのままパイプイスに腰掛け、資料の束を拾い上げて彼を真正面から見据えた。

「今回は他の課が受けて、一応終わったとされた事件を無理矢理むしり取ってきてやったんだから感謝して」

紙を丸めてぽんぽん、と片手の中に打ち込むと、彼の眉がピクリと動く。

「この僕を楽しませるくらいなんだから、余程の事を扱う課なんだろう? そうすると、―ああ、特殊課だな」

「ご名答」

紙を開くと、彼はニンマリとらしい笑みを浮かべ、脚を組み直してこちらを見つめた。
―様々な異種族が認められたこの時代、異種族関係の事件を扱う課は、総じて『特殊課』と呼ばれている。
吸血鬼、魔女、狼男―全て異種が絡めば特殊課に回される。特殊課ではあらゆる能力者―を飼い慣らしている。彼らが各々の力を使い、事件を追い掛けるのだ。
自分はそんな能力者に憧れた事は―あまりなかった。彼らは所詮「飼われている」事を他より酷く実感せざるを得ないだろうから。
まあ組織に飼われている自分もそれは変わりないのかもしれない。

「聞かせてご覧」

シュヴァルツのその微笑みは彼の本当に楽しんでいる証だった。逆に期待外れだと後々が怖いんだけれども。

「…事件が起きたのはとある公園。朝方散歩に出ていた老人が公園のベンチに座っていた―座らされていた女性を発見。
後頭部に陥没痕、首筋には二つの穴。彼女は―全身の血液を抜かれていた」

「…続けて」

「それからその僅か離れた別の公園の像の下、路地の隅、街路樹の下、廃屋、ビルの屋上、大学の敷地内…と
同じような状態で次々と女性が殺されて捨て置かれているのが発見され、9人目で上はようやく鉛の様な腰を上げた…
それぞれの遺体からは2つの穴とヴァンパイアの痕跡を…血を吸った事を確認済み」

「……へえ」

シュヴァルツがその真っ赤な唇をぺロリと舐め上げてから唇をゆるりと持ち上げて楽しそうに笑った。これは良い感触かもしれない。
説明を終えて一区切りすると、彼はじっと考え込んだ後にゆっくりとその唇を開いた。

「……ヴァンパイア、か」

「まあそうなるでしょう、だからこの事件は特殊課に行ったのだし、他の課に任せられるものではない。
彼らは異種族に対抗し得る唯一の人間だから。それに私は能力者ではないから」

私はね、と言ってそのまま自分の膝を叩くと、彼は違いないと言って柔らかに微笑した。

「でもね、特殊課と違うのは、能力が無い者は代わりにその脳みそで考える、という事ができるんだよ。そしてそれは人間の強みだ。
能力者は能力に頼り過ぎて己を見失うきらいがある。普通の人間にとって、思考は最高の武器さ」

私は小さくため息をついて、諦めた様に目の前の彼に言い放った。

「そうよ、私は唯の凡人。だからこうして頭の良い貴方に請うているの、尤もーこれは貴方の空虚を埋める為に、既に終わった事件の資料をもぎ取ってきたに過ぎないけど」

私は脚を組み直し、改めて天使の顔をした彼を見る。

「…シュヴァルツ? それで感想は如何?」

シュヴァルツ、それが彼が教えてくれた彼自身の名。それは天使の容貌を持つ彼からは想像もつかない「黒色」という意味を持つ。
間違ってはいない、だが何も知らぬ人間なら到底信じられないだろう。長いまつ毛が2・3度震え、瞬きをしていた瞳が再びこちらを興味深そうに見つめた。

「ミエル。…そうだねぇ、面白いよ。まずいくらこの時代、あらゆる異種が認められたとはいえ明らかな殺人は違法だ。
こんな昔ながらの手法で明らかに「喰い散らかしている」のはお行儀が悪いね。何故そういう事をしているのか…お行儀を躾けられていないか、もう一つは」

「何か理由がある」

そう言うとシュヴァルツは満足そうに一つ頷いた。
いくら異種とはいえ殺人はご法度、それは大人は勿論、物心のついた子供にだって分かる。
それと、と彼―シュヴァルツは唇の前に人差し指を立てながら、目の前に居るミエルの沈黙を見計らって柔らかに崩す。

「この犯人は他にも固執している。公園。路地端、街路樹の下―そうだ、僕は路地端の傍には大きな樹木があるとみる。廃屋だと庭先に一本くらいあるかな。
ビルの屋上は飛行機が発着できるビルでそこの色は緑。大学の敷地内は樹木の5・6本はあるだろう。…どうだいミエル」

「………樹木、もしくは緑」

「そう、犯人は樹木か緑そのものに固執している。理由は分からないが、ミスタ―かミス…ああこの際だから彼でいいか。
…兎も角、彼にとってそれは理由のあるものだ。それ以降も彼はそれに固執して殺人を犯しただろう」

「緑にどんな意味があるっていうの」

ミエルがそっけなく問いかけると、シュヴァルツは組んだ脚の上に己の肘を乗せ、人差し指を唇の前に立てた状態のままうっすらとその唇に笑みを浮かべ、口を開いた。

「15世紀に発刊された世界初の色について語った本、『色彩の紋章』によれば、
『緑色は渇きと湿り気の中間にある物質にあって熱さによって生じる。しかし葉や果実や木々から分かるようにこの色は渇きよりむしろ湿り気の方に傾いている。
そのため緑色は黒っぽい。そして両眼に緑を眺めるように促し、力をつけ、さらに眼が疲れたときには回復させてくれる。

この色はいつも陽気で、青春の色である。木々、野原、葉、そして果実を表す。石ではエメラルド・碧玉・緑石英などに例えられる。いずれも貴石である。
この色は美・悦び・快楽・永続を表す。……この色は時間と共に変化するから、愛が変わりやすいことを意味している』とある。

栄枯盛衰の色と言えば分かりやすいかな。緑はやがて枯れ、黄色くなる、そして緑を繰り返す。二面性…移り気のある色なんだね。
そして黄色はー裏切り者が身に付ける色。狂った者が身に付ける色。発刊された当時の時代でいえば、愚か者を演じていた道化師、理性の働かない子供の身に付ける色だった」

「……シュヴァルツ、貴方」

顎にかけていた手を離し、目を大きく見開いた状態のままシュヴァルツを見た。

「……相手は、道化師…否、子供だったと?」

見つめる彼の瞳は面白そうに輝いて、その口元は彼の手に隠されて見えない。薄い壁の向こうの黄金の瞳は、そこには見えない何かを見通しているかのようだった。

「………さぁて。でも僕は…僕には犯人がまるで子供の様に見えるんだ。安っぽい殺し方、固執している緑。
そして殺されるのは皆若い女性…子供が愛おしい者を―母然り、恋人然りを求めて邪魔する者を殺している。
二面性の緑…二面性を持った緑。それは幼子の皮を被った者の様。……だから僕は先程犯人を『彼』と言った。殺されているのが女性だから。
そして彼は己が理性を欠いた子供であると、殺人の中に紛れ込ませて提示している。気がついてほしいから」

「……子供の皮を被った」

衝撃に言葉が出ず、額から零れた汗がぽたり、と地面に落ちて色を変えた。シュヴァルツは尚も淡々と言葉を続ける。

「さぁて…それは分からない。でもきっとそれからも彼は殺した。
そうだね、裏切りの黄色を持ち合せる緑なら、そう…殺す人数も13人、最後はきっと…本命を殺した。二面性の緑、裏切りの数字に最大の意味を込めて。
付け足して言うなら、緑という色はその二面性から悪魔の色、とも言われている…現在もそうだね、醜い化物の象徴の色であるよね。
彼はヴァンパイアといしての自分も知って欲しくもあったのかな」

「……」

酷く自分がうろたえているのが分かったが、どうする事も出来なかった。
カタカタと震えるミエルの手を見ながらシュヴァルツは面白そうに笑い、口にやっていた手をゆっくりと離すとパイプイスから立ち上がった。

「……当たり?」

「…そうね。でも最後の本命はその彼を追っていた捜査官だったの。結局その子は殺されなかったから、彼の本懐は果たせていないわ」

「ホント…ふうん。それは僕には分からなかった。でも同業者として彼の気持ちは分かる。彼は目的があり、命をかけた思いがあった。
その罪を理解し、その罪を犯していた。僕はその…理由を持って罪を犯す気持ちは分かる。……だがしかし、それだけだ」

所詮彼には他人の罪を犯す為の理由の方などどうでもいいのだ。彼は彼自身の理由で罪を犯し、そして今はこうしてこの部屋に繋がれている。

「ふふ、ふふふ。さあさ、その続きは何? 彼は結局他の4人―いや3人か。どうやって殺したの?」

「……彼は10人目まで他の人間を操って殺していた。10人目はその操っていた人間。
その後11人目は美術館の野外アートの下で殺される。12人目は古びた教誨。そこには中世の物を模したダンス・マカブル…死の舞踏のステンドグラスがはめ込まれていた。
尤もそれは、もう朽ち果てた教誨から運ばれた…」

「ダンス・マカブル! へえ、もう無くなったと思ってた!」

「言ったでしょう、リメイクものよ。それでも古いは古いらしいけど」

「へえ…見たいな」

楽しそうにそう言ってから、シュヴァルツは考え事をする為に首を傾げて黙りこんだようだった。しばらくして囁くように赤い、血のような色をした唇から言葉を漏らす。

「10人目は無残に殺された、操っていたくらいだ、どうでもいい存在だから喰い散らかしただろう。
11人目は野外アートの下だから樹木は目に付く場所にあるね。12人目は教誨か。…それでは、その殺された人間はエメラルドグリーンの瞳、かな。
ダンス・マカブルのステンドグラスがじゃ出来ない事もないが、不特定すぎる………色々考えると、緑というのは彼にとって純粋なもの―樹木ではないか、寧ろ緑という色そのものなのかな」

それでも少し悩んでから、シュヴァルツは傾げていた首を元に戻して顔を上げる。ミエルはちら、と彼に目をやってから資料にまた視線を戻して言った。

「彼の…本当の姿の彼の瞳はエメラルドグリーンだったそうよ」

「本当の姿?」

「……喰った子供の皮を被っていたらしい。だから事件毎に気配が違い、捜査官は迷ったみたい」

「だから言ったでしょ、能力者の捜査官は力に頼り過ぎる……で、死んだの?」

「ええ。本命のその捜査官の目の前で」

「…そ。…じゃあ彼は、己の瞳に何か思い入れでも在ったのかな。彼はヴァンパイアだし、その捜査官が本命ってのも違和感だ…」

「似てたんですって、顔が」

「嗚呼、そう言う事…彼女との思い出? 緑の瞳が? 分からないな……でもあれだ、もう過ぎた事か。…ならどうでもいい、至極どうでもいい」

彼は本当につまらなそうに荒々しく首を振ってそっぽを向いた。
それからそれに、と続ける様にシュヴァルツは突然立ち上がってからこちらにーと言っても壁に挟まれているのだがー近づき、その透明な壁にペタリ、と人差し指を突きつけた。

「君は僕の事だけを考えていればいい」

そして見据える、黄金の瞳。異形の瞳のような、美しい瞳。その瞳が私を移す時だけ、時の流れは一瞬にして流れを変える。

「君が他の男の事を考えるなんて許さない。君を殺すのは僕だ。僕を殺すのは君だ、ミエル。それ以外は死んでも許さない。君を殺すのは僕だ僕以外許さない」

それは殺意だ。禍々しい程の殺意。あの時のあの感情が今は壁を通して伝わっている。
ぞわぞわと背中に虫が這いまわるようなおぞましさ。どこか胸を刺す様な切なさ。声は楽園の蛇の様に艶を持ち毒を放つ。
それら全てを唇を噛みしめて堪え真正面から受け取る。しっかりと彼を見つめる。彼を殺す。その意識で彼を見つめる。その時だけ私は『有機物』になる。彼がそれを望んでいるから。
その時だけ彼は人を殺す『無機物』と化す。

「…ふは」

やがて乾いた笑いが室内に木霊した。

「ははははははははは! あははははは! ふはははははははは!」

彼が、身体をのけぞらせて、狂ったように全身で笑い声を上げる。その様子も私はしっかりと彼を見つめていた。
それはまるで関心の無い喜劇を見ているかのように、面白くもなんともないものだ。しかし見なければならない。
やがて彼は笑い終わると、今度はベタン!と両手を壁に貼り付けて身体の重みを預け、下からゆっくりとこちらを見返した。皿の様に丸く開いた瞳が瞬間、微笑みによって細くなる。

「…その視線が見たいんだよ。俺を捉えた時に俺だけに向けられた瞳。ミエル…俺はいつだって逃げ出せるんだ。あの時も簡単に逃げられたんだよ。
それでも敢えて、君がいたから、君だから掴まったんだ。

僕を殺す役目を君にあげる。

そのかわり君を殺す役目は僕に頂戴。あの時から、君が僕を捕まえた時から、僕らは誰よりも近しい関係になったんだ…」

甘く囁く声は脳髄を酷く刺激する。クラクラと眩暈を誘う声が意識に直接語りかけてくるようなそんな感覚を受ける。そして彼は待っていたかのように衝撃の言葉を口にした。

「君はいつも関心が無い、興味もない、人としてすら僕を見ていないふりをする事で僕を手なずけていると思っているのだろうけど、違うよ。
僕はそんな君が好きだから―そういう風に思わせてあげようと思った。愚かで、可愛くて、それが堪らなく愛おしい」

三日月の様に、その真っ赤な唇が持ち上がって笑った。ミエルはその場にイスに腰掛けたまま、言葉もなくただ絶句していた。


―彼にはやはり全てが分かっていた。


どこかそんな気はしながらも気がつかず、結局彼の掌で踊らされていた、という事実に、彼はいつでもここを出られる、という事実に、言葉が出なかった。
今まで自分がしてきた事は。自分がしてきた事は。黄金の瞳がまた嬉しそうに笑い、細められる。

「正直に告白してしまうなら―僕はあの時―あの瞬間に、激しい感情を僕に向けて来た君に惹かれてしまったんだね」

「……そう」

やっとの事で無機質な音程でそう言い放つと、彼は尚も嬉しそうに笑ってこちらを見た。

「おいで」

崩れ落ちた身体を再びイスから起こしてそっと近付けば、彼は彼は壁越しに手招いて透明な壁の、こちらの顔の高さに手をつけた。
拍子に彼の手首にかかる銀のチェーンがちらりと顔をのぞかせた。

彼の、人を殺した罪の証。

しばらく沈黙した後、シュヴァルツはでもね、と真っ直ぐな視線をこちらに向けて言った。

「……何度も言うけどね、僕は激しい感情をぶつけてくる『有機物』の君も好きだけど、そっけない『無機物』の君も好き。
大好きだよ、ミエル。だから僕は、敢えてその君の態度も受容するんだ…」

づう、と彼は壁に付けていた指を滑らせた。

「……僕はどっちの君も好きだから、自分からは殺さない。君を誰かに殺されるくらいなら、僕が殺すってことだよ。
勘違いしちゃ駄目だよ。勝手に誰かに殺されたりしちゃ駄目だ。ミエル…」

「……」

ふと時計を見て時間を思い出し、何とか彼の優越をぶち破る様に話を切った。

「シュヴァルツ。私はもう帰るわ」

「あーあ…もうそんな時間…」

立ち上がり、反転して扉の方に顔を向けて歩き出すと、ああそういえば、とシュヴァルツが思い出したような声を上げた。
何事かと思い再びそちらを振り返ると、彼の黄金の瞳が悪戯に視線の先で輝いている。

「最後の、12人目の教誨。ステンドグラスがはまっていた元の教誨を見てご覧。
今じゃないよ、昔在った場所…街外れの古びた教誨ってコト。……そこに面白いものがある。暇が出来たら行ってみると良い」

それから彼は可笑しくて堪らない、といった風にニタリとした笑みを張りつけたのだった。





◇ ◇ ◇




それから間もなくして私は例の教誨に行ってみる事にした。何の事は無いただの好奇心に過ぎないのだが、彼が最後に言ったあの言葉がどうしても気になっていたのだ。
朽ち果て欠けた扉を通り、祭壇のある部屋へ進む。
神が住まうあの荘厳な佇まいの祭壇は今や土と埃にまみれている。その背後にはステンドグラスがはまっていたであろう壁の穴がある。

―そこにはもう何もない。

神の象徴は欠け、そこが既にいかに使われていないかを物語っている。祭壇に近づき、見つめようとする前にふと思った。
彼は何故この事を知っているのだろう? 私は事件のあらすじの様な事しか朗読していないのだ。それなのに、何故彼はここに面白い物がある、と言ったのだ? 
どこかでそれを知ったのか? 情報は漏れていないはずだし彼も漏らす様な事はしない、というか出来ないのだ。あの白い部屋は彼を全てから遮断しているという。

それからしばらく考えたが、その場で考えても仕方ない事なので取りあえずステンドグラスの近くまで行く。
朽ちかけた祭壇を食い入る様に見つめると、そこに何かキラリと何かが光を反射して光った。祭壇まで行き、その姿を確認する。
それは細工の美しい金色の懐中時計だった。鎖は切れてしまっていたので持ち上げた拍子に音を立てて滑り落ちる。耳を当ててみるが音はしない。
ひっくり返し、元に戻してから蓋を開けてみる。よく見ると蓋の裏に小さな文字が彫られているのがかろうじて読みとれた。




『Avec toi』(アヴェク・トワ)

君と共に


「……これ…は…」

君と共に。

それでは、彼は―あの12人を殺したというその彼はー本当に愛おしい者を探していたのか。よくよく見るとチェーンには何かが茶色い物がこびり付いている。恐らくは…血だ。
その後も懐中時計を見返してみるが、それ以外は変わった事は無かった。

「……」

擦れて傷つき、所々金が禿げてしまっているそのつたないメッセージをしばらく見つめていた。胸が締め付けられ、鼻の奥がじいん、と痛む。何故だか涙が零れてきた。

―罪を犯した理由。

それは、愛おしい者を求めた者の唯一の願い。ただ会いたかっただけ。ただ一緒に居たかっただけ。愛したかっただけ。
それはあまりに無垢で、純粋な、純粋過ぎる思い。異種が求めた、たった一つの思い。それが人を脅かす大罪を起させ―そして叶わずに終わった。
報告書によれば、彼の本当の思い人はずっと前に死んでいた。
その思いを考えると、切なかった。ただ切なかった。



Avec toi アヴェク・トワ。



君と共に


君と共に。
君と、共に。



それは異種族―ヴァンパイアと人間とでは決して叶わぬ思い。
彼は自分を追い掛けて来た捜査官に彼女の幻影を見たのだろうか。
叶わぬ思いを消化できぬまま、己の無気力な生を生きたまま、そしてその幻影に何を願ったのだろう。
―その場に崩れ落ちて、ミエルは一人咽び泣いた。




―その頃、あの白い部屋ではシュヴァルツが目を閉じ1人イスに腰掛けて微笑んでいた。
目の前には透明な壁、その向こうには自分が座っているイスと同じようなパイプイスが置かれている。
数日前にそのイスに座っていた人物を思い出しながら、シュヴァルツは静かにそのイスに向き合っている。その唇から零れるのはまるで呪詛のような甘い言葉だった。


「……ミエル。ミエル。ああ今それを見ているんだね。…泣いているの? 優しいね。
…ミエル、僕はそんな感受性を持つ君の事も好き。狂おしい程好きだ。君は僕をかき乱して狂わせる。
ねえミエル、何故僕がその文字の事を知っていたかという事を君はさして疑わない。

愚かで可愛い、僕のミエル。それが普通の人間である君の良い所だ。僕はそんな風になれない…君の様に…だって僕は…」




―予知と千里眼と魔眼を持ってる化物だから。

―忘れないで、ミエル。

―君を殺すのは、僕。

―僕を殺すのは―僕の世界を終わらせるのはそう、この世界で君だけだよ…





―僕の世界は、君と共に終わるんだ。













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