人間にも天使にもなれなかった、私の背骨。
「居た」 温もりのある手が肩甲骨があるであろう墓所にある。 何で墓所というのかというと、普通ならそこには肩甲骨があるはずなのに、私はその感触を確かめることが出来ないから。 実態は感じないけれど、そこに存在するのは確かだと思うから、私は手で触れることの出来ない骨の感触を言葉で葬ることにしたのだ。 それともこの思いとはウラハラに、本当に彼は溶けてしまったのかもしれない。 どこでどう私を見定めたのか、細菌は今もこうして私の骨を喰らい続け、もう足は動かない。 車イスという人工物が今の私の足となって動き続けている。 彼がなければ私は白いベッドの上から動くこともなく、掲げた十字に祈りを捧げる毎日だったろう。 今までの私は、それで十分だった。神に祈りを捧げ、やがてくる安らかな眠りを約束してくれれば、私は何を望むでもなくただ信仰だけを糧としていただろう。 そんな時、彼は私の前に姿を現した。 何を信ずる訳でもなく、自由に生き、食物を喰らい、酒を飲み、それでも彼はくすんだ中にも分からない未知なる光を持っていた。 私とは全く違う彼に、私は心底心酔した。捨てることの出来ない信仰との間に挟まれ、私は苦悩した。 そして私は神を選んだ。 たとえ先の無い私を彼が愛してくれたとしても、結果彼は今以上にくすんでしまうと考えた、私の単純な考えからだった。 だが私の思考を彼は拒絶した。 ある日の真っ暗な闇夜に、酒を飲んで泥酔したまま私の部屋の窓を破り入ってきたのだ。 その時彼は気の済むまま語った後にその場に倒れて眠ってしまった。そして再び私は彼を追ってしまうことになる。 彼は私以上に純粋だった。 私は彼を追ってしまったことで芽生えてしまった生きることへの執念と反した現実の重さを絶望し、小さな海に身を投げた。 彼はすぐ私を助けて飛び込んだ。 夜気のせいで冷たくなったその小さな海とは相反した、彼の生に満ちあふれた手が暖かくて、私は余計に哀しくなった。 「僕の背骨をあげるから、君の心をちょうだい」 塩素臭さが鼻につき、小さなさざなみの立つ水面下で、彼は生に満ちあふれた声で私に囁いた。 もう離れることは不可能だ。私の心がそう告げた。 彼を本当に愛してしまった。 「もう心はあなたのものよ」 青い青い水が、哀しいほどに目に染みた。 それから彼は時折、車イスの私の後ろに立ち、在る筈の骨の行方を探す。 そうして少しでも感触を見つけるとほっとしたようになり、私を後ろから抱きしめる。 私はもう声を発することも難しくなった。彼に笑いかけることでしかこの胸に残る愛を示せなくなった。 そうであっても、彼にはこの想いは届くと信じて私は笑いかけるしかない。 神への信仰が失せた訳でもない。待つ先にはきっと神がいるだろうし、私を迎え入れるだろう。だがもう安らかな眠りはないと私は確信している。 最後の最後で、運命は私をねじ曲げたのだ。 彼というあまりに過酷で安らいだ生を、私は見つけてしまった。 だが後悔は微塵もない。哀しくもない。思ったこともあったろうが、そんなことは記憶の彼方に消えてしまった。 人間でもなかった。 でも私は、天使ですらなかった。 それでも私は、彼と出会った。 今はただ彼がいる。それだけだ。それだけでいい。 彼という存在が、私を取りあえず人間でいさせてくれるのだ。 |