紫煙の闇の中で、彼はふと切れ長の瞳を開けた。
ああ。嗚呼。

宙をまさぐって、どちらも大分古めかしいステッキとシルクハットを手に取る。
やって来た。やって来た。ヤッテキタ。
なんて美味しそうな。
ネクタイは・・・このままでいい。シャツも。
彼はすっと宙に立ち上がる。

「やってきたよ友よ・・・さあ仕事を始めよう・・・」

そして彼は、その場から霧のようにかすれながら姿を消した。




「ん・・・・」

目が覚めると、辺りは紫色の光に包まれていた。
<・・私・・どうしたんだろう・・>

記憶が切り取られたようにすっぽりとなくなっている。今までのことが全く思い 出せない。
<・・なんで・・!?・>

頭を抱え込んで、アカネは無音の声を発した。
「・・一体ここ・・どこ・・?」

周りを見渡せど、あるのはアメジストのような色の世界。ミステリアスなその光 がただただ彼女を包み込むのみであった。
思考が混乱をしかけたその時。


「・・ほお、お嬢さんか今日の客人は」


緩やかなメロディのようにアルトの声がその場に流れた。
「誰!」

見渡すが、誰もいない。

「ははっ、なかなか元気のよいこと」

気づけばいつの間にか、目の前に霧が固まって発生していた。そしてそれは徐々に固まって濃くなり、人型を形成していく。

「ようこそ、元気なレディ」

現れたのは、一人の青年だった。

だらしなく着こなしたYシャツに、黒いネクタイを引っ掛け、頭にはキザったらしくシルクハットが乗っかっている。

妙に長い耳をぴょこんと跳ねさせ、周囲と同じ紫の瞳を薄気味悪くキョロリと動かして青年は静かに語りだした。

「迷いせしレディ。此処は意識の奥深く、狭間の迷宮のラビリンス。君は今、とてつもなく深い悩みを秘めている。それを解決するために、君にはこの迷路で更に迷ってもらおう」

「なっ…!?何言ってんの!?此処から出して!帰る!」


突然何を言い出すのか、この人は?頭オカシイ人?

だが青年はシルクハットに手を掛けたまま不気味な笑みを浮かべたままだった。

「それは愚かと言うものだミス.アカネ。此処に迷い込んだのは君自身なのだから」

「私…自身?」
「そう」

青年の手の中でクルリとステッキが踊る。
彼はダルダルのYシャツのスソを片方だけ摘んで、ステッキを持った手を胸に寄せて華麗に一礼する。
「述べた通り、此処は狭間の世界。抜け出したくばこの迷路を通っていくのみ、迷っていくのみ。辿り着くのは果てまた幸か果てまた不幸か、辿り着くのは君自身。僕は案内人として付き添いましょう。申し遅れました僕はこの迷宮の住人、シェークと申します」

青年―シェークが指を鳴らすと、灰色の巨大な迷路が出現する。
「いざ、忘却の彼方へ…」

彼の誘う手の先に、ぽっかりと真っ黒な入り口が開いた。
立ち尽くしたまましばし考える。


行くしか、無いようだ。

アカネはゴクリと唾を飲み込むと、覚悟を決めて入り口へと歩き出した。







迷路の中は外と同じく紫の光で満たされていた。
燭台に立たされた蝋燭は悲しげに蝋涙し、アカネを先へ導く。
「さて」

茶会を仕切る主人のよろしく、紫煙の闇からシェークの声が浮かび上がった。

「レディアカネ、僕はここには姿を見せられぬ故を先に断っておこう・・この迷い路では立ち止まった場所に貴方の果たすべき命題が与えられる・・それを果たしながら先へと進み、ゴールを目指して頂きたい・・」

「果たせなかったらどうなるの?」

何もない空中に問いかける。
空気は、問いかけの主の笑みを含んで震えた。

「さあ・・?・・先にも述べた通り、僕は道を知らず、ゴールを知らず・・何、答えはそこだけで導き出せるものではない。果たせなかったら戻ればよい・・ほら、そう言っているうちにやって来た・・」


紫煙の霞が掛かる行き止まりが、目の前に立ちふさがっていた・・





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