3.

「ひ…あ…う…」

誰もいない静かな公園に、男の怯えた声が響き渡る。それは死をまじかにした恐れの悲鳴すら上げられない声だった。
月灯りが男の身体に、その前に立ちはだかる者の影を映す。ウフフフフ…艶のある女の笑い声が男の恐れを一層深くしていく。
肌寒い夜には不釣り合いなルビー色のキャミワンピに、艶めかしく蠢く白い肢体。

しかし女の美麗な顔は醜く歪んで、犬歯がキラリと光った。


「どぉして逃げるの…? 愛してるって、貴方言ってくれたのに…哀しいわ…」

「あ…あ…あ…」

「…私が嫌い? 好きよね…だってそう言ってくれた…熱い抱擁も愛撫も交わしたもの…ネ…」

べロリ。
女の長すぎる舌が唇を舐める。コツン、とヒールが音を鳴らし、そしてー


「ダカラ…アイスルワタシニスナオニタベラレテヨ!」

ダァン!

人間にはあり得ない跳躍をしたかと思うと、ソレはものすごい速さで男に襲いかかる。


「うわあああああ!」


ガキイイイイイイン!!!!

次の瞬間、その身体は男の前に現れた何かによって力一杯はじき返され、甲高い奇声と共に勢いよく後方へと飛ばされた。
男は何が起こったのか分からず涙に濡れた瞳で瞬きをし、視界を確保した。
ぼんやりとした輪郭がはっきりとしてくると、その前には二つの人影が立ちはだかっている。
髪の長い女と、短い髪をぴょんぴょんと跳ねさせた男だ。二人は同じ制服の様なものを着ていた。


「あ…」


こちらの声に反応したのか、左の影が振り向かぬまま背中越しに声をかけてくる。


「…とっとと逃げろよオッサン」

「災難だったわね…次はもっと良い女見つけなさい」


これは夢なのか? 男はその視界に映るものが未だに信じられずにいた。
さっきまで一緒に居た女は突然化物になるし、襲ってきたそれを防いだのは二人の制服姿の若者だ。
おまけに二人は同じような日本刀の様なものを片手に持っている。
訳が分からない…それを最後に男の意識は突如フッ…と遠くなり、失われた。

ドサッ、とその場に倒れ込んだ男を見て、二人は互いに顔を見合わせ、そして目の前のモノに再び視線を移した。
醜く歪んだ女の姿をしたソレは、不貞腐れたような声をあげる。


『ナンデジャマスル? ソレハワタシノタベモノヨ!』


「人様に見られるようなマナーの無いババアに喰わせるものなんてないぜ、邪鬼」

「お口が悪くてよ、紅」


め、とたしなめる様に真紅が言う。
それから彼女はソレー『邪鬼』を見つめると、その唇にわずかな笑みを浮かべながら、氷の様な凍てつく声音で話しかけた。


「…という訳。貴女はマナーが悪かったの。
人間を食べるのはマナー違反よ―そしてそれを粛清するのが私…
…嗚呼、貴方達『邪鬼』の業界では、私の様な者の事を『鬼飼い』というのよね」

『オニカイ…! するト奴ワ…!』

「そ、『飼い鬼』。力のある人間と契約を交わし、実体と力を得る―最強の鬼だぜ」


ふふん、と鼻を鳴らして得意げに話す紅に、邪鬼は途端に憎悪と共に唾を撒き散らしながら激しく捲し立てた。


『愚かナ人間ト契約を交わシ、ワレラから寝返った同胞ガ…! 我を粛清スルと申すカ!  フン…ナラバ…ヤッテミセヨ!!』


ブゥン!!


低い重低音と共に勢いよく風が起こり、邪鬼の身体がヒュガッ! と勢いよく紅に飛びかかってくる。
狙われているのは己の首―瞬時に判断して紅は笑みを浮かべたままカチリと右手に持っていた日本刀に手を掛けた。


「ようやく楽しくなってきたなぁ…なぁ『紅赤』(べにあか)!!」


キィイイン!!

次の瞬間、月夜の空に二つの影が激しくぶつかり交差する。
数秒間激しい金属音と衝突音を発しながら空中にとどまった影は一旦地面に落ちると、一方の影が耐え切れずにガクリと膝を折った。


『クソ…このワレガあの餓鬼ニ…』


その右腕には横一線に切りつけられた傷があり、ボタボタと血が零れている。
それを抑えつけながら幽鬼の様に立ちあがり、切りつけた相手を睨みあげる。


『ツケアガルナヨ…小僧!』

ヒュガッ!


目の前の身体にすぐさま突進を掛ける―前もってその左手に近くにあった割れたガラス片を握りしめていた。
こんな欠片でも自分の力でやれば少しくらいはダメージを与えられる筈だ―
高速で飛びかかりながら尖った先を彼の心臓に向けて振りかぶったーはずだった。


『エ…?』


ブチブチブチィ! と耳元で何かがもの凄い勢いで千切れた音がした。
肉と血にまみれた世界の住人である自分には分かる、あれは刃物で肉を切った音だ―でもどこから?


『ギャアアアアアアアアア!!!』

ブシュウウウウウウ!!


邪鬼が考える間もなく次の瞬間に訪れたのは猛烈な傷みと熱、そしてー己から吹きあがる赤の液体だった。
それはホースを抜いた水道の様に液体を撒き散らし、猛烈な痛みをどんどん連れてくる。息が…出来ない!


『アアア嗚呼アア!! ガアアア!! アアアアアア!!』


重力に従って身体が地面に落ちていく最中、かろうじて相手の姿を視界に収める
ーそれは己の右腕と血濡れた銀の日本刀を持った青年がにこやかに佇んでいる姿だった。
青年は嬉しそうにケケ、と声をあげると持っていた日本刀を振り、血のりを払った。
少し残ったがまあ後で処理すればいい。日本刀に向かい、楽しげに話しかける。


「ああ、『紅赤』。お前も楽しいんだな。分かるぜぇ…この血をみるだけでチョ―興奮するよなぁ…ゾクゾクするぜぇ…」


答えはしない無機物の刀に彼はそれは楽しそうに語り掛ける。
ケケッ、とまた一つ笑い声を上げると、ドサリと地面に落下したこの身体の前に歩み寄り―


『ヒ…ッ』

声にならない声を上げた時、青年がこの身体の上にあの日本刀を突き付けている所だった。
ゾワッ、と全身を何かが這い上がり、悪寒が廻る。

これはー恐れ? 人間より畏怖の存在として崇められていたこの自分が、恐れている?

青年は頭上でニッタリと口元に笑みを張りつけたまま笑うと、傍に付き従っていた少女に視線を向けたようだった。
その瞬間にわずかな隙が青年に生まれた。今のうちだ。
身体に残っている体力を総動員させ、筋肉をフルに稼働させて身体の上に在った日本刀を目一杯はじき返す。
途端に小気味いい音が夜の空に響き渡った。


キイイイイィン!!


全身のバネを使って何とか体制を戻した身体を青年と少女から引き離す。
それまでは死にかけだった者に体力が残っていたのに驚いたのか、二人は目を丸くしてこちらを見つめていた。
やがて―深いため息の後、ゆっくりと口を開いたのは、隣の少女だった。


「全く…あれほど油断をするなと言ったのに、紅。困るわね」

「俺のせいなのかよぉ?」

「そうよ。…仕方ないわね」

言って、彼女は自身が左手に持っていた日本刀を右手で鞘から静かに抜き始める。
シャアアアァ…鞘が刃と擦れ合い、それ特有の音を立てて刀が抜かれた。
それは青年のものより少し短めだったが、それでも相当の長さがあった。
刀を右手に持ち、地面に切っ先を降ろした格好のまま、少女があのー凍りつきそうな眼差しを邪鬼に向けた。


「さあ『黒紅』(くろべに)。おいで」


言うが早く、彼女はひらりと舞う様に身体を跳躍させて来た。
プリーツスカートがフワッと風で膨れ上がり、細い脚が空を蹴る。
なんだーこんな軟弱な人間の小娘なんかは容易に避けてみせる。
身体を捻り彼女の軌道から身体をすぐに逸らそうとしてー今度こそ己の身体は背中から地面に叩きつけられた。


ダアアアン!!

『グハッ!』

「…黒紅は血に染まる己をあまり好かないのよ。でもね、殺すのは大好き」

頭上に聞こえた少女の冷静な氷のような瞳と声に、邪鬼は今度こそ大きな声で怒鳴りあげる事しか出来なかった。

『ナゼ…何故ワレガ勝てぬノダ! チクショウオオ!』

じたばたともがくが今度は何故だか身体を持ち上げる事が出来ないー
それは彼女の日本刀が己の身体を地面に縫いとめているからだったのに一瞬後に気がつくその時には時既に遅かった。

「さあ、紅。黒紅が留めている間に、やっておしまいなさい」
「了解。ご主人様」

ォォォォン……
日本刀が静かに咆哮を上げた。

『ヤ、ヤメロオオオオォォ!!』


日本刀が邪鬼の身体を貫き、邪鬼の身体が一定の時を置いて足から砂の様に粒子になって崩れ始める。
やがて全身にまでそれが達すると、それは風に流されて飛散していく。
それを見つめながら二人はふう、と互いにため息をついた。

「…やぁっと終わったな」

「紅」

「ん?」

「……さっきの失態は誤魔化さないから」

「は?」

「後でおしおきよ」

「はあああぁぁぁ!?マジかよ!」



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