ルナは何処に行ったのだ。彼女は少し出かけてくる、と言ったきり音沙汰がない。静けさに包まれたオフィスにカインは一人そう呟いた。
ヴィオは先程ルナについていこうとしてこっぴどく断られたので仕方がないと家に戻ってしまった。全く、二人も護衛がいながら情けないものだ。滑稽さにおもわず自嘲の笑みが浮かぶ。
おもむろに歩いて窓の傍まで行くと、街の灯りが遠くに浮かび上がっている。街の灯りは好きだった。どんな偽物であってもこの目を楽しませてくれる唯一の人口光。それをしばし堪能した後、カインは目を閉じ、まるで氷の様な冷たさで後ろの暗闇に声を投げかけた。


「いい加減姿を見せたらどうだアンナ」


声をかけられ、暗闇からすう、と白い影が浮かびあがる。その細いリップがうっすらと弓状に持ちあがった。アンナは右手で前髪をかきあげて苦笑した。


「貴方には叶わないわ。当たり前だけど。」


「今日の勤務はない筈だが、どうした」


「貴方に会いたかったからよ」


「戯言を」


堪らずカインがくっと嘲笑う。彼女は案の定む、と眉を潜めたようだった。コツコツコツ、ヒールが床を叩きつける音が聞こえ、彼女の気配が背後に漂う。


「貴方はそうでしょうね。でも本気なのよ」


そ、と両腕が絡みつくように伸びて、身体の重みが加わった。女性ならではの柔らかな感触、甘い匂い、かすかな息遣いが闇の中でも伝わってくる。


「・・・・・ねえ、カイン」


暗闇にアンナの声が水面の輪の様に広がり、消えていく。


「貴方が好きよ」


後ろから伸びた腕が、更に身体に絡みつく。顔を背中に押し付けられているのが気配で分かる。


「ずっと、ずっと、愛している」


鈴を鳴らす様な声。それはあの時から変わらない、とカインは思った。人を治すだけではなく、魔術をかけられた人間を治すといわれるベナンダンディ。生まれた時羊膜をまとって生まれ、魔女と戦う運命を与えられたベナンダンディ。あの時は今の様な思慮もない民が彼女を時に追い詰めていた。それでもそれが定めだと当時は受け入れていた。
そんな彼女を当時の自分はあんな事があった直ぐだったせいもあって、荒んだ心で見つめることしか出来なかった。


「・・・今もあの時も、俺はお前の思いに答える事はない」


そう冷静に返すと、アンナはびくりと肩を震わせ、ぎゅ、とカインの服の裾を掴む。そのまま背中に顔を押しつけて黙っていた。しばらくして身体から離れたと思うと目の前に回ってきた。見上げてくる、堪える様な表情と、涙を溜め、赤く充血したその瞳は切なげに潤んでいた。


「・・・・・・・・貴方はあの時から変わったのね。あの時も貴方は同じ答えを言ったわ」


そして彼女はゆっくりと頭を垂れた。ぽたり、と床に落ちる水滴。


「俺の心は、変わった。心だけは、変わる事が出来た。」


腕を浮かんで離さないアンナに、諭すように一つ一つ言葉を落としていく。


「俺は・・・・っ!・・」


口を開こうとしたその瞬間、急にぐい、と掴まれていた右腕を引かれて前にバランスを崩したと同時に唇を塞がれた。離れようとしてもがくが力いっぱい引かれて離そうとしてくれない。女の体力だというのに。


「っ・・・・・・ふ・・・・・・!」


やっとの事でそれが離れると流石に互いの息はあがっていて、暗闇の中喘ぐように肺の中に空気を取り込む。アンナを見下ろすと、彼女のその柳眉を悲しげにゆがめ、もう半泣きの状態だった。蚊の鳴く様な声が彼女の唇から零れる。


「・・・・ないで・・」


「アン・・ナ・・・?」


「それ以上は・・言わないで・・・!」


ポロポロと零れる涙から目が反らせない。あっけにとられていたカインにアンナは右手を胸に当て、絞り出すように声を上げた。


「その残酷な続きは言わないで・・・!」


アンナは泣いた顔を隠す様に俯き、そして帰る、と一言呟いて踵を返す。


「アンナ・・!」


「ごめんなさい・・・・」


コツン、コツン、とヒール音を響かせて扉の向こうに消えていく彼女を、カインは静かに見送るしか出来なかった。闇がいつもよりいやに身体に絡みつく。彼女の悲しい顔が頭からこびりついて離れない。でも自分の気持ちは彼女にはない。あの日も、今も、俺はアンナを傷つける事しか出来ない。そんな自分をどうして好きだというのだろう。自分の掌を見つめ、おもわず顔をしかめた。この血まみれた手で今どうしても守りたいと思うのは、一人だった。


「今一番残酷なのは・・・俺なのかもな・・・」


カタン・・・


「・・・・!」


不意に扉の方から物音がしてカインは戸口の方をバッと振り返った。そこに居た人物に彼は思わず息を飲んだ。


「ルナ・・・・・」


スライド式のドアがいつの間にか開いていた。オートドアだ、ルナが立ちすくんでいるせいで開けっ放しになっているのだろう。青ざめた顔は闇の中で青白く浮かびあがっている。


「ご、・・・ごめ・・・・立ち聞きするつもりじゃなかった・・」


「いつから・・・・いた・・?」


震えそうな声を押し殺している。それはルナも同じだった。互いを探り合う状況が何とも苦しい空気を生み出していた。


「・・・・聞いていたなら、分かるだろう。俺の心はルナのモノだ。」


ぎゅう、といつの間にか近づいていたカインに抱きしめられる。カインのあのエキゾチックな香り。いつもは落ち着くのに、今は何故が切ないだけだ。


「・・・・んで・・・」


「・・・・ルナ?」


「なんで・・キスしたの・・・・?」


「あれは・・アンナが急に・・・」


どうやらカインは問われた事よりもこちらの感情に戸惑っているようにも思えた。
切ない、その感情が溢れだして吐きだした言葉と共に涙がボロボロと零れた。感情がこうも違うのはあまりにも切ない。カインは泣くな、と珍しく動揺して男性特有の骨ばった手で涙を拭ってくれている。


「・・・・・・ごめん」


囁くように呟かれたその言葉を、今は素直に受け止められない。当たり前だ、人間なら。人間なら。思ったらぼろり、とまた涙が零れた。それを何とか袖で拭って、ルナは俯いたまま静かにカインの言葉を否定する。


「・・・・今は、無理。」


「ルナ・・・」


「・・・ごめん、先に帰らせてもらう。ミスターオギに言って運転出してもらって。・・・今貴方と居る事は・・・できない」


努めて何でもない事のように振る舞う。今はそれだけで精いっぱいだった。そのままくるりと踵を返し、暗い道へと足を向けた。カインは抗おうとルナの背中に手を伸ばしたが、それは途中で空を掻いて落ちた。















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