3日後、自分の携帯が鳴っているのを見て電話に出ると、狼の王―ヴィネからだった。
「この間は我が臣下がお前に大層な非礼をしてしまったようだ。大変に申し訳ない事をした。」
開口一番変わらない口調でそう詫びてきた彼に、ルナはニッコリと―顔は見えないにしてもー苦笑しながら電話口で答えて言った。
「いいえ、こちらもある程度予想はしていたのです。いくら王が偉大でも、たかだか人間の小娘に最大の譲歩をしたのですから、許せない者もいるだろうと。」
「だが、それを黙らせるが我が仕事なのだよ。それでルナ、その詫びも含めて、またいつもの喫茶店に来てもらってもいいだろうか。」
「え?ええ、それは構いませんが・・・そこまでして頂く訳には」
ためらいがちにそれをこぼすとヴィネはそれはいけないとキツめに突っかかった。
「狼というのは礼儀を酷く重んじる者なのだ。さあ、ルナ。私を困らせてくれるな。何、君の為にコーヒー豆を取り寄せて自らが挽くくらいは許してくれてもいいだろう?」
最後にそう付け足した彼の口調には、いつもより少しばかり茶目っけが混ざっている様に聞こえた。
いつもながらこの喫茶店は現実離れしている。古いクラシックが―最もかろうじて古いものというのが分かるぐらいだったが―程良い音量で流れ、ベルベットのアンティークソファはいつまでもその場に居たくなる座り心地だ。コチコチと規則正しく時を刻む八角柱古時計はこの場所の主の風貌を漂わせていた。
やがて目の前に大きな影が落ちてルナが顔を上げると、小さなトレイを器用に片手で持ったヴィネがそこに立っていた。自分の好きな香りが鼻をくすぐると、自然に笑みが浮かんでしまう。それを見たヴィネが口元に笑みを湛えて微笑んだ。
「お嬢さんは相変わらずこの黒い液体が好きだな。普通の人間より濃いのを好むなんて」
「だってその位苦くないと喉に流し込んだって分からないでしょ?ヴィネのコーヒーは特にそうなの。こんなおいしいコーヒー、忘れたくないから苦さで脳みそに記憶させないと。」
「お嬢さんは本当に口だけは達者だな」
くくく、と喉の奥で低く笑うと、そのままテーブルにコトン、とトレイを置き、ルナの目の前にカップを置いて、どうぞ、と手で促した。
「私のオリジナル・ブレンドだ。生豆から取り寄せ、煎ってゆっくりと抽出した。お嬢さんのお好きな苦みが特徴のコーヒーだよ。それでもしっかりとしたボディとアロマがあるから、苦みだけではなくその味わいも楽しむといい。」
ヴィネは向かいのソファに座り、その細い顎に手の甲をつけてからコーヒーをじっくりと堪能しているルナをニコニコと見つめていた。
飲み込んで舌で味わうと、特徴のある苦みと奥からくる酸味、鼻に抜ける爽やかな香り。思わず頬が緩みっぱなしになってしまう。一口飲んで置き、腕をグーンと後ろに伸ばす。
「美味しい。腕は変わらないですね、王」
「君に言われると嬉しくなるな。くく、コーヒー通が唸るならもう少しこの店も続けられそうだ。」
至極面白い、といった顔でヴィネは声をあげて笑った。もう一口二口と飲み込んで、ルナはコトン、と音を立ててカップを置いた。
「ところで王、私をこちらに招待したのはこの私の脳みそを蕩かすコーヒーの為ではないでしょう。例の件もあるのではなくて?」
「その通りだよ、お嬢さん。例の君の襲撃事件の件の詫びと結果の報告も兼ねてだ。君も気になっていたのだろう?君は優しい子だからな」
そういってヴィネは改めてきちんと姿勢を正すと、視線を向こうにやった。少しして奥の方から音もなく一つの影が現れる。すらりと伸びた影、そしてのぞくオリーブの瞳。ヴィネがああ、思い直したように口を開いた。
「紹介は、もういいかな。・・・まあ一応改めてしておくか。セイル=ヴォルディ。私の臣下だよ。」
そう言われて彼―セイルはただ黙って頭を下げた。にこやかに返してやる。
「お久しぶりね、セイル。その様子だとヴィネに四肢分断はされなかったようで安心したわ。ずっと心配だったのよ」
「お気づかい感謝しますルナ。それと前回は大変申し訳ない事をしてしまいました。改めて謝罪を」
「もういいのよ。貴方のその後だけが心配だったから、それだけ。だってヴィネは恐ろしい方ですもの。ねえ?」
「え?は、いや・・・」
答えにくい質問を投げかけてしまったが故にどもってしまったセイルの様子にヴィネはハハハハ!!と大声で笑った。
「あまり我が臣下をいじめてくれるな、ルナ。あの話、本来ならば人間との不本意な抗争はご法度。私も頭に血が上っていたのもあるが、ルナの話も聞いて、まあ冷静になったのだよ。私も大人げなかった、話を聞けばこちら側にも少なからず非はある様子。それであの時は引き下がった。まあその決定に臣下の幾ばくかは我慢ならなかったのだろうね。このセイル然り。」
「それでも王、ヴィネ。貴方は私の願いを聞き届けてくださいました。そしてこの件でも」
「私とて四肢分断までするほど怒っていた訳ではない、聡いお嬢さんの人柄も買って、私はセイルを許した。まあ、かわいい刑罰は与えたがね。」
ふん、と息を漏らしてセイルを見やる。彼は王の傍に控え、跪いていた。驚いてヴィネを見ると、セイルがこともなげに言ってのけた。
「ルナ、ご安心ください。小指の皮を剥がれただけです。あと銀の指輪を」
「ヴィネ・・・!」
勿論それがどういう事が分かっているルナはその場で青ざめたが、ヴィネは変わらない表情を貫くだけだった。
「君との約束は破っていない。そうだろう?」
「ですが・・・銀は・・・・!」
どんな異種にも毒になる銀。それを皮を剥いだ所に付けたままという事は・・・おぞましさに震えが走る。
「いくら君が良いとはいってもね。きちんとしたけじめが必要なんだ。本当なら小指一本持ってくところだったのだ。」
「王・・・・」
この王の残虐性はこういうところにある。このような小さな件にも手抜かりはない。彼が怒りのまま先月の件を許していなかったらきっと残虐の限りを尽くしていただろう・・・
「ルナ。気になさらないでください。これで良かったのです。」
優しげな眼差しで微笑むセイル。その指は苦痛どころの話ではないというのに。ここは引き下がるしかない。それが種族間の暗黙の了解だ。
「・・・・分かったわ・・・これ以上の口出しはしない。種族の問題ですもの」
「聡い子、私の捜査官のお嬢さん。この話はこれで終いだ。さて、次は忠告だよ」
「何かあるのですか?」
不思議に思って問いかけると、ヴィネはセイルに目配せをすると、セイルが改まった表情で話し始めた。
「ルナ、今貴女の傍に魔術師がいますね」
「・・・・どうしてそれを」
「彼女は危険な存在です。彼女は魔に魅入られやすい。」
「それは・・・どういう」
問い返すと、彼は悲しそうな顔をして黙って首を左右に振った。
「俺達が言えるのはここまでです。これ以上は俺達にも危険が及ぶ事になる。」
「だから忠告まで、なのだよ。私はしかし君の事も心配だった。捜査官のお嬢さん。私はこれ以上何もできない事が口惜しい。」
ギリ・・・・握りしめた王の拳が音を立てる。そのままふわ、と纏う空気が変わると、王が自分を抱きしめていた。
「あれからヴァンパイアの血に魅入られてはいまいね?異種の血は力は与えるが、反作用的な物も強い。」
「王。ご心配ご忠告いたみいります。大丈夫です。」
にっこりと笑い、彼の腕をそっと取って引き離す。王も特に気にした様子もなくそのまま離れた。哀しげに微笑むその表情に少し心が傷んだ。
「・・・・そろそろお暇します、王。」
「またおいで。いくらでも私は君の支えになろう」
最後にそう微笑むその優しげな眼差しは、とても残虐王と呼ばれる男の顔とは思えなかった。
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