「アンナ・・・」

凍りついた表情で、カインがアンナの方向を見つめていた。アンナはその視線を受け取って、素晴らしく氷の女神の様に美しく、そして冷たい微笑みを浮かべた。

「この時を、ずっと待ってた」

「・・・・」

コツン。

彼女が歩くたびに、そのつま先が乾いた土をぱらり、と蹴りあげる。

「・・・貴方はあの吸血鬼狩りの時、黙って去った。それでも、私は生き残った。貴方が飢餓のあまりに私を襲い、血を奪った時。このままでは終わるまいと、貴方の手首を噛み千切ってやった」

「・・・しかし、俺は心臓も潰したはずだ」

俯き加減のカインが見上げる様な視線で彼女を見つめた。アンナはクスリと声を上げ、楽しそうにカインに視線を返す。

「貴方は私がベナンダンディだって事忘れてるの?」

「・・・・・・精神体に?・・・しかしベナンダンディは身体に戻らなければ・・・」

ふふっ。そしてアンナは楽しそうに笑った。くるりとターンをした後、また向き直ってカインを見つめる。

「・・・私は、どんな事があっても貴方に逢う。どんな事をしてでも」

「身体を捨てた・・・っていうのか!」

「いいえ、捨ててはいない。修復するまで待っていたの。それは長い長い、とても長い年月を要したけど。
意識の中で貴方を血を吐くほどに呪い、嫉妬したわ。貴方の心を占めるあの人の事、何故私がこんな目に遭わなきゃならないの、苦しい、痛い、貴方は行ってしまう、行ってしまう・・・やっと見つけたと思ったら、またあの子と同じような顔をしたあの子に貴方は熱を上げていた」

ぎりぃ・・・噛みしめる音が彼女の唇から呪いの様に零れた。

「だから、取り戻すと決めた」

「あ・・んな」

「やっと迎えに来れたわ、マスター。ご主人様」

そして彼女はそっとカインの手を取った。カインはそれを拒む事が出来ずに、凍り付いた様に固まったままだった。ルナはその様子を見開いたその眼で捉えていた。その視線に気がついたアンナはルナの視界を捉えて、それはそれは美しい笑みを浮かべた。
途端、ルナの視界が誰かの手で隠され、ぐい、とその身体を引き寄せられた。ヴィオだった。

「もう見るなルナっ・・・・止めてくれ・・・俺の言う事は聞けないかもしれないけれど、止めてくれ・・・ルナ」

そんなヴィオの声などもはや彼女の耳には届いていないのをヴィオ自身が痛感していた。あ・・・あ・・・とその唇から声が零れる。力無きか細い身体を掻き抱き、現実と引きはがそうと言う様に抱きしめてやるしか今の自分には出来ないのを良く知っていた。
ルナを掻き抱いたヴィオは、やああって目の前の二人に眼を向けると、すぐさまその場で殺してやろうかというくらいの殺意を込めて彼らを睨み付けた。

「カイン。てめぇに傷つく資格なんかねぇからな。全てはあの日のお前がやり残した事だ。自業自得だ。てめぇは自分の、ただ自分の為だけにこの事を黙っていたんだろう。
そこのアンナ=ロッサが―お前が意図せずとも作りあげたヴァンパイアだって事を。
少し考えれば分かったんだ。お前が何故そこまでアンナ=ロッサの安否を気遣うのか、赤の他人にも近いソイツに。当たり前だよな、自分の子供なら、心配もするか。だがそれを彼女に黙っていた事は万死に値する・・・!お前はルナを裏切ったんだ!」

「貴方はそうやって彼を責めるけれど」

アンナが横から割って入る。

「途中で気が付いていたのなら、何故―貴方が言わなかったの?」

にこ、と口元を緩めたその表情はしかし氷の眼差しを貫く事を忘れぬまま固まっていて、ヴィオはぞくり、と寒気を覚えずにはいられなかった。

「それこそ残酷な事。カイン自身の口から語らなければルナはもっと傷つく。・・・言いたかったけれど、それでは駄目だとなんども堪えた」

耐え切れない、と言った風に顔を逸らした後にぐ、と唇を噛みしめる。アンナはすぐに顔から表情を消して言った。

「・・・・自分が傷つく事を恐れるか。自分が傷つく事を恐れるならば余計にそれは他人を傷つけると言うのに。ならさして貴方もカインと変わりなくてよ。私は恐れない」

「黙れ!この魔じょ」

カキィン・・・

次の瞬間、水を打った様に静かにカインの長く伸びた爪がヴィオの喉元に突き立てられていた。

「ガッ・・・!」

ヴィオがまるでカエルがつぶれた様な声を発した。鮮血が舞い散り、放物線を描いて地面へ降り注ぐ。己のしでかした事にも関わらず、カインはまるで信じられないものを見た、という表情でその光景を追っていた。

「ヴィオ・・・!」

ヴィオの胸の中でルナが弱々しく引きつった声を上げた。しかしその腕にいるルナを離そうとはせずに、力一杯抱きしめていたが、やがてその力も潰え、ずるりと重力に従って落ちる。途端に地面に放り出されたルナを、黒いスーツの腕がそっと絡め取って抱き寄せた。

「さ、ルナ。僕の所においで。嗚呼、死体の始末もしなきゃいけないんだね。自分でやるの?今の君にそんな気力ない癖に。・・・まあいい。時にそこの紫電の眼の怪物、そう君だよカイン」

ルナを腕の中に抱きしめたままアルヴィンがふい、とカインに視線を向けた。

「ルナは僕の所に貰っていく。勿論、刃向うなんて出来ないよね?この子が僕の手元にいるんだから」

茫然としているルナの瞳にもはやいつもの強さはない。それを見てとってカインはぐ、と奥歯を噛みしめた。それを見て、アルヴィンが嬉しそうにニコリと微笑む。

「君を閉じ込めていた彼らは前もって僕らが殺しておいてあげたから、安心して良い」

「!なん・・・だって?!」

途端にカインの瞳に驚愕の色が混じる。

「アベルを・・・アベル=ブランを殺したのか・・・」

「・・・そうだね。哀しいよね。君を庇う為に敢えて君を煽り自分も重傷を負い、罪を被せ、地下の奥深くへと幽閉した。アイツは書物と全く逆の事をしてみせたんだ。は、頭いいんだか悪いんだか。小賢しい。ふん、だから七罪の一人として見染められたとも言うが」

そう吐き捨てるように言い放ったアルヴィンを、カインは呪う様な目つきで睨みあげた。しかしアルヴィンはそんな視線もものともせずにカインを嘲笑った。

「・・・僕の組織は蟻の巣の様になっていてね。僕の仲間のインヴィディア―アンナも僕の組織の一幹部だ」

訝しげに眉根を寄せたカインに、アルヴィンが納得してなさそうだな、と言って微笑む。

「七罪の香水を持つ者がただのオーナーだと思っているのならそれは誤りだよ。セブンシンズは犯罪集団さ―否、それは俗世間の言う事かな、僕らは彼らを総称して断罪者たちと言っている」

「・・・お前たちは神の代わりに人の罪を裁く者とでもいうのか。人風情で」

「何とでも言えばいいさ。兎も角ルナはもともと僕の物だ、貰っていく。君の処遇はアンナに任せている。警察機関から逃げれば問題沙汰になるから戻って現実を確かめておいで。少なくとも今までの生活を崩さない程度にはなるだろう。まあ、なんだ、とどのつまりね」

そう言って彼はルナを抱えた腕をぎゅ、と締めてその身体を支え、その場の者たちに視線を投げやりに向けた。倒れ込む者、頭から血を流して亡者と成り果てた者、絶望に青ざめる者―真意を秘めたままの仲間。そして彼はその童顔に似合わぬ冷酷な笑みを張りつけすげなく言い放った。

「つまりは―僕は君らに興味はないんだ。望みの物さえ手に届けば、後は皆ガラクタなんだよ。カイン―君はもう僕の視界に入らないでくれるか。お前の様な奴が今までルナの傍に居たのかと思うと虫唾が走る。君に言えるのは一言―『消えろ』」

「グラ!」

諌める声が響くより早く言った彼の手元にいつの間にか拳銃が現れ、避けようとカインの意識が働いた瞬間に火を吹いた。躊躇が身体の動きを鈍らせ、その弾丸が己の肩を貫いた所で地面に衝突する。直ぐに動こうとして身体が動かない事に気が付き悲鳴をあげた。弾に銀が混じっている。じくじくとそれが広がり、身体を侵し始めていくのが分かった時にはもう遅い。

「がああああ!!・・・・お前・・・くっそおおおおお!・・・」

地面にのたうちまわるカインをアルヴィンが冷たく見下ろす。アンナがアルヴィンに怪訝な眼差しを向けて言った。

「貴方今本気で殺そうとしたわね。私がずっと彼を探していたの、知っているでしょう」

その攻め句にも彼は全く悪びれもせずにそっけない口調で吐き捨てる様に返す。

「ふん、軽く銀を掠ったくらいで死なないじゃないか。ルナと一緒に居たという現実だけでムカムカする、早く君の所に連れて帰れ。ああ、警察との密な連絡も忘れるな。あっちにはアイツがいるからカインについてはお前がいれば大丈夫だろうが」

「ありがとう、グラ」

アルヴィンがくるりと踵を返し、腕にルナを抱えて去っていく。その足音は今のカインには地獄の鐘の様にガンガンと鼓膜を叩いて殺しにかかっている。同時に蝕まれていく身体を無理矢理引きずっても、その喉から零れおちるのは破れた声だけだった。

「ルナああああ!!」

コツン。

カインの前に影が落ち、アンナがとても美しい微笑みを浮かべた。


「カイン、マスター・・・私が居るわ、今度はもう遠くに行かないでね」


その微笑みの先に見える物など無い事をとうに知っている。薄れゆく意識の中、カインは己の心でそう感じていた。








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