―時間はやや前にさかのぼる。

「女ってのは訳分からん生き物でさ」

暗闇の中で、幼い声が響く。その声にオギは酷くこわばった顔しか出来ない。
街下の灯りを見渡したその人は、高い声でクスクスと笑い、イスにどっかりと腰を降ろす。

「ちょっとした事一つで、悪女にも聖女にもなっちゃうんだ。は、笑っちゃう。一方では男を誑かして股を開く生き物かと思えば、一方ではその貞操を神に捧げちゃうんだぜ。オギ」

「当時の民衆の意見の違いでも在りましょう。人間は社会的に生贄を求めました。それが悪になるか聖に傾くか。それだけの違い」

そう、そうだね…とその人は面白そうにそう言った。暗闇の中、その人の紫電の瞳がキラリと光彩を放った。

「でもさ、なにが違うんだろう。悪魔は神の許しがあって存在する。ならその逆も然りだ。神も悪魔がいてこそ神になり得る。どちらに股を開くかなんて・・・いや、止めておこう。それ以上は下種な話だ」

「今日は嫌に大人しいじゃないですか」

「良いだろ、別に」

ふん、と不貞腐れた様になるその人は、ふと気がついたようにオギの方に顔を上げた。

「そう言えば、元飼い主、近くにいるそうじゃないか。風の噂で流れてきたけど」

「……とある敵対主が不老不死の噂があるとかで、その関係を調べてきて欲しいと要望してきています。まだ本人には伝えていませんが。この件が終わり次第」

そう言って胸の前に右手を当て、身体を折り曲げる。その人は微かに笑んだようだった。

「見物だ。ふふ、あれにとっては切っても切れない縁だから。楽しみだねえ」

「ならそのお楽しみを今叶えてやるよ」

パスン。
乾いた音が突如暗闇の中に響いた。次にえ、と言う声がし、次の瞬間その人の肉体がドサリと部屋の床に倒れ込む音がした。オギはその音を耳に入れた。そして自分から、この自分の口から悲鳴が上がったのを聞いた。そしてその人に無我夢中で駆け寄った。隙がある事を自覚していながら、分かっていなかった。パスンと、次にも同じような音がし、そして自分の背中に焼いた鉄をねじ込んだような痛みと熱が惑いこんだ。

「ガッ…ハぁ…」

暗闇の中、倒れ込んだこちらを見下ろしてくるその影を射殺してやる勢いで睨みつけた。その声に聞き覚えがある。いいやそれどころではない。己の主は無事か、主は―

「…あ…べるさ、ま。…アベル様…アベル様ぁぁぁぁ!!!」

自分の頭の上で小さな影が蠢いていた。まだ息がある。ホッとしたのもつかの間、彼の心の臓に穴が空いているのを見て全身から血の気が失われていく。絶望した。

「オギにまで撃つかい…ガキは手癖が悪いね…」

頭上の声が嘲るように響いた。煙草の煙が漂っている。あの香水の香りも。あれは・・・嫉妬の香りだ。仲間を連れてくるなんて・・・

「……は、コイツだって同じ様なもんじゃないか。お前の血を定期的に頂いた、もう半吸血鬼だろ、アベル。それにガキはお前だ。俺の大事な飼い犬を血の池に放り込んで遊んでる。何が警視庁の真のトップさ、笑わせるな。お前の大事な兄弟のカインを適当な罪状付けて地下牢獄に放り込んで保護しといて。お陰で仲間が随分と探すのに手間取ってた。全く…この機会に仮釈したのはどういう心の変わり様なのか、知ったこっちゃないけど。アルテミスの時だって、お前が噛んでる事はお見通しなんだ。カインが必要以上に傷つかない為にアルテミスを半殺しにしたのも、分かっている」

アルテミスを半殺しにしたのは、優しさ?オギは薄れゆく意識の片隅で必死に考えた。この方はカインで遊んでいる、それだけだと思っていた。カインはあの人の・・・アベル様と同じでいながら、違う存在だ。アベル様は憎んでいたはずだ。殺したい、いつも言っていた。それは嘘・・・?掠れた声が上の方で響く。

「あれ…を作れと…指図したのは、僕だよ?…大悪魔に、それは大金はたいてね。…大事にもするさ。あんな強い力の…稀なんだから…お前なんかには…過ぎたものだった…お前の元から掻っ攫ってきたのも…それが理由さ」

嗚呼、嗚呼。そう言ってその影はじれったそうに頭を振った。

「そんなのどうでもいい。そもそも俺は人間の世界に当然の様に干渉する、アベル、お前と言う存在そのものが嫌悪する程、殺したい程憎たらしくて大嫌いだったのさ。なあ、アベル。傲慢のsuperbia(スペルビア)。昔から嫌いだったよお前が…
オギ、お前には悪いが悪は少ない方が映えるんだ。夜に咲く朱は、何より少ない方が美しい。は、それより何より、人間の世界を真に支配するのがお前みたいな吸血鬼だなんて吐き気がする、反吐が出るよスペルピア。もう出ていけよこの世界から」

カチリ。

それは破滅の音だと知っても、身体が動かない。声の出ない喉で息を吸いこみ騒音の様な声を張り上げ、震える身体を、必死になって筋肉を動かし、彼を庇う。
その行為にその影は至極呆れた様だった。

「オギ。言っとくがな、どんな父も、どんな神も、結局の所俺たちを救わない。救わないんだ。分かっているだろう。いつかは離れるんだ。離れていくんだよ」

意識の最後に聞いた音は、己の背中に穿たれた弾丸の乾いた音だけだった。













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