眼を覚ますと、そこは白い天井だった。 と言ってもいつも寝起きしていた自分のあの部屋ではない。 水色とシルバーを基調とした部屋は自分の幻影となって消え、現れたのは病的なまでの白い天井だった。 黙ってムクリと身体を持ち上げる。その途端に天蓋付きベッドの、薄曇りのようなグレイのカーテンが揺れた。 涙で腫れぼったい眼をまたたかせ、視界を何とか取り入れる。 広くて、でもどこかのっぺりとした印象を受ける白とグレイの部屋。 時計は無かったので今何日の何時何分なのかも分からなかった。 ぼんやりとした頭で記憶を呼び起こしていく。嫌でもそうするしかないのだ、と自分の本能が悟っていた。 やがて思い起こしたその現実に、ルナはまた一つ涙を流した。 裏切られた、と思った。 今まで何も言ってくれなかった。それがどんなにつらい現実であり、カイン自身が言えなかったのは把握出来る。 しかし、だ。 (せめて…その口から聞かせて欲しかった…) そう思ったら、またポロリと涙がこぼれた。同時に自分に問いかける。それを聞いて、自分はそれを受け入れられたの?と。 アンナが実はカインの子供だった、なんて。 じっとりと粘り気を帯びたアンナの狂いそうな視線を思い出す。あの狂気を、彼女はずっと秘めてカインを探していたのだろうか。 人間という枷を放たれた彼女には、もう失うものもなかったのだろう。ただ一つ手に入れたい、カインという存在以外に。 カイン。 ぎゅう、と両手で己を抱きしめる。部屋の冷気がひやりと手の甲を撫ぜた。 (…何故、貴方と出逢ってしまったのだろう) 今ほどに神を深く呪った事はない。 『…我を失っては駄目ですよ、ルナ』 その時、草木の囁きのような声が自分の脳に響いて、ルナは思わず辺りをバッと見渡した。部屋の中は自分以外おらず、ひっそりとしている。 誰だ?首を傾げている彼女に、『声』は更に語り掛けてきた。 『…覚えておいでですか。俺の声を』 「…! 」 こちらの分かった空気を察したか、途端彼が喋らないで、と戒めてくる。 『セイル=ヴォルディです。覚えておられたようで安心しました。ルナ、しかし今は決して俺の名を口にしないでください。 今、フォリ=ア=トロアに協力してもらって俺の声を届けています』 ジジ…とノイズ混じり聞こえたその名に、ルナはビクン、と反応した。彼は無事なの?ドゥは? その問いかけに、セイルは変わらない静かな声で返してきた。 『彼は…彼らは奇跡的に生還しました。ただ今度はトロアが身体の主導権を握っていますがね。ドゥにはもうほとんどその力が無いんです。 身体を主導する力がね。他の能力が健在なのは幸いといったところなのか』 <―そう。良かった> どんな形であっても、また彼らがこちらに戻って来てくれたのは幸いだった。否、彼らにとっては地獄なのかもしれない。特にドゥには。 『…それより、貴方の方が今はおつらいのでしょう。それを告げられなかった俺達にも非がある』 セイルの声にくやしさが滲んでいた。その調子にルナはすぐにそれを察した。 <―貴方は知っていたのね。だからあの時、悪魔に例えて忠告をした> ルナが冷静にそう告げれば、セイルは本当に申し訳ありません、と声を荒げた。 『我ら種族は特にヴァンパイアと相容れませぬ故、あの場は致し方なく…今は言い訳にしか聞こえませんが』 <―良いの…とは言い難いわね、今は> 『宜しいのです。貴女の身を切る様な苦しさに比べれば俺の事は存分に罵ってください。憎んで下さって良いのです。 貴女の苦しみのはけ口に、存分になさってくださればよろしい』 <―どうして> 今までずっと思ってきた事だった、どうして、何で彼はそこまでして自分に優しくして、尽くしてくれるのだろう。 その先を言うより早く、セイルが躊躇いがちに口を開いた。 『貴女を御護りしたい。俺の心はただそれのみ。今はそれだけでお察しください…』 <―……ありがとう> そう呟く様に囁くと、セイルはそれで宜しいのです、と再び言うと、すぐさま話を切り替えて言った。 『…今の貴女は、セブンシンズに貸し出されているという形になり、 カインは実質アンナ=ロッサに監視される形で外に出ている事を許されている。互いにセブンシンズの中にいるのですよ』 <―そう…> 『しかし』 凛、としたセイルの低くまろやかな声は、疲れ果てた能力者の心を溶かす様に包み込む。 『アルヴィンはカインをセブンシンズには入れないでしょう。アンナはそうしたがっているが、彼が拒めばそれは絶対になる。 アルヴィンにとって彼は所詮眼の中に入ってしまったゴミに過ぎない…程の悪い言い方ですが。むしろ彼は貴女をセブンシンズに引きこもうとする筈―否』 <―取り戻そうと、ね。分かっている、そう、貴方はもう全て知っているのね> ふ、と疲れた様にため息を漏らせば、セイルはまた申し訳ありません…と小さく声を上げた。 それを聞いたその時、ルナの耳は微かだが靴音がこちらに向かってくるのを聞き取った。 <…! そろそろ誰か来るみたい…遮断して> 慌ててセイルに心の中で叫ぶと、向こうの方でセイルがおい!と焦る様に誰かに言っている声が聞こえた。 そしてノイズ混じりの音声の後に、セイルの声が静かに頭の中に響いた。 『…お気をつけ下さい。…貴女が居たあの頃と大分内情は変わっている筈。しかしそれでもアルヴィンはあの頃と変わりません。 変わらずに残酷で被虐。彼は…危険です…いつでも俺を御呼び下さい…この身を賭しても参じます…』 ブツリ。 電波が切れた様な音の後に、靴音が部屋の前で止まり、一定の間の後にシュン! と扉が開いた。ゆらりと、まるで影の様な人の身体が部屋へと入ってくる。 コツ。 「目が覚めたみたいだね…」 スモーキーアッシュの髪の毛が揺れる。こちらを見つめてくる蒼い瞳が、深海の蒼の様に揺れた。 その瞳は酷く懐かしくもあり、今はただ同時に恐ろしくもあった。見た目よりは若く見えるその美しい顔が嬉しそうに微笑み、ルナの肩に手を置いた。 「気分はどう? もう痛い所とかはない? 」 「大丈夫です…」 それでも恐ろしさに何とか声が震えない様にするのが精一杯だった。そんな様子を感じ取ったのか、その声の主―アルヴィンはクスリと苦笑交じりの笑い声を上げた。 「そんなに怯えなくてもいいじゃない、ルーナ。俺の事忘れちゃったわけじゃないでしょ? 」 「ええ、ごめんなさい」 忘れた訳ではない、ただ忘れようとしていた。ただ消せない過去を必死に、それは必死に。 それを言えば彼は自分を殺すだろう。そう思いながら必死に次に繋げる言葉を探す。肩に置かれたアルヴィンの白い手がそっと、二の腕に伸びた。 白い幽鬼じみた、女の様にほっそりとした手。昔はその手が何でもできる魔法の手だと信じていた。 「ルーナ…傷ついて可哀そうな可哀そうな俺のルーナ…可哀そうに、君の心の荒れ模様を見れば分かる。やっと、やっと会えたね。何年振りだろうね」 「覚えていないわ」 「酷いなあ」 そのままゆっくり引き寄せるその手を、振り払えない。抱きしめられ、引き寄せ入れられたその胸の中の温もりを、今だって愛おしく思う事が出来るから。 ルーナ、と囁く声が頭上に響く。 「俺の大切なルーナ…俺は決して君を傷つけたりしない。 だからね、本当はしたくないけれど、俺はその分信じているんだ。そんなルーナに…君にどうしても任せたい事がある。 お願いしてもいいかな。ね? 」 そう呼んでくれるのはただ一人、この世でただ一人。 ルーナ。Luna。ラテン語で月。 そう名付けてくれたのは、この名を付けてくれたのは… 「………アルヴィン…」 その名で呼ばれる度に、自分は深い深い闇に囚われてしまうのだ。その蒼い瞳はこちらをその触手で捉える。 水の手の様に冷たく、柔らかく、静かに。名は魔力だという。だからなのかもしれない。 (……だから私は、囚われている。ずっと、ずっと) 天使の様な顔をした、悪魔の本性を持つこの男に。
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