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目の前が霞む。立っているのがやっとだった。
それまでは平気だったのだが、先程のバラバラ遺体から立ち上る僅かな血の匂いにどうやら知らず身体が反応していたらしかった。
帰り際、誰も居ない会議室を見つけた事を幸いになだれ込み、フラフラと千鳥足で何とか近くの椅子に辿りつき、そのまま倒れ込む様に身体を投げ出した。
少し硬いクッションの感触が彼の長身をやっとの事で受け止めた。
はぁ…と短く深い息を身体から吐き出し、視界を直そうとして両目の上に乗せていた右腕でゴシゴシと目を擦る。

だが結果は分かり切った事だった。


(……視界が)


霞かかって全く見えない。部屋の輪郭が何とか浮かび上がっている程度だ。カインはわずらしさに大きく舌打ちをした。
聞こえないのは良い、触れば読める、しかし見えないのは色々と困る。そう思ってその場で否定した。


(…否、もう困る事なんかない)


自嘲の笑みが自然と零れた。そうだ、見えないならいっそこのまま見えなくなってしまえばいい。
この汚らしい世界、穢れた世界、自分から望んだのにも関わらずこの身が拒む。全てが見えなくなれば。


「ハ…」


視界が徐々に霞む。いつの間にか自分の前が暗い…声が聞こえた。


「カイン」


ヒヤリとした感触が頬に触れた。
髪の毛がサラリと自分の頬に落ちた事で、その人物が自分の思ったより近くに居る事が分かった。
その前にそっちから触れて来ているので誰だかは最早分かりきっていた。絞り出すような声で、反論の様に囁く。


「………アン…ナ…」

「……」


目の前で呆れかえった様なため息が聞こえた。
それから衣擦れの音、ボタンが弾ける音と続き、カインはゾッとして出ない声を張り上げた。


「!…止めろ!」


「止めるのは貴方よ、カイン。いい加減血を飲んで。
もうアレから―魔女事件から一回も飲まないなんて…もうここまで来たらこうするしかない。貴方が一番分かっているはずよ」


「!」


頑としてそう言われ、目の前を霞める甘く香り立つ血の匂いに嫌が応にも眩暈が増した。
犬歯が無意識の内に伸びて噛みしめる唇を突き破る。
ぶちりという音の後に匂い立つ己の血、そして―その向こうで香るアンナの血の匂い。
幾歳の月日を経た今でも思い出せる、彼女の『血』の匂い、その異端の者特有の甘やかさ、舌に乗せた時に流れた女の血のまろやかさ。
それが己の獣の証だ―それを否でも突き付けられる。その獣の本能に吐き気がする。嗚呼、嗚呼、己が獣をいっそ此処で殺せたなら! 
するとアンナの腕が首に回り、吐息が耳元に触れた。


「カイン」


薄れた視界の中に入る首筋。その下を通る血管だけが嫌にリアルに見えた。


「もう抵抗しないで。己の獣を受け入れて―」


―貴方の獣は貴方自身。いくら抵抗しても反旗を翻しても無意味よ?
妖魔のごとき囁きにぐらぐらと意識が傾いでいく。


「止め…ろ…止めろ! 俺…は」

「嫌」

「!…俺の…言う事が聞けないのか!」

「聞けない。だってそうしたら貴方は死んでしまう」

「なら殺せ!俺を直ぐに殺せぇ!!!」

「嫌よ!」

「っ…!」


視界が効かないせいか、目の前の気迫に押されて息を飲む。それでも見えない視線は感じた。
息を吸う度血の匂いがしてつらい。アンナがこちらを引き寄せて、首筋に近づけた。


「殺さないわ。貴方は殺さない。
だってずっと、ずーっと、気が遠くなる年月を貴方を追って追ってやっと会えたのに、今度は貴方が死ぬとか、絶対にさせないわ…」


―肌が伸びきった犬歯に触れた。


「もういい加減…諦めてよ」


アンナのちぎれそうな声が彼方で聞こえた。
その瞬間、飢えた獣の意識が己の意識に飛びかかるようにジャックしてカインの理性は崩れ落ち、無意識にその手が彼女の後頭部を掻き抱いた。


「っ…あ…」


ぐじゅるぐじゅると音を立てて己の血をむさぼる己の中にいる男を、アンナはただ夢中で抱きしめる。
訪れる痛みの中に横たわる湧き立つような快感を、理性の手綱で引き寄せて堪えた。
それでも背中に駆け上がるゾクゾクとした衝動を抑えきれず掠れた声が漏れた。


「っ…ああ、…」


此処に居る。ずっとずっと探してた人が此処に居る。この感情を果たして人であった時ならなんと表しただろうか。
それはまるで母御に置いて行かれ、か細く声を上げ幼子の様な。人を救う身でありながらも血を欲したが為、初めて人を殺めた時の衝撃の様な。
憎しみを身に宿し、それでもこの腕の中の化物を憎み切れなかった愚かな自分を呪った時の様な。

―どうでもいい。


「よ…かった…此処に居る…」


もはや聴く耳を持たない己の主にアンナは何度も囁く。祈る様に、願う様にそれは何度も何度も。


「…カイン…も…諦めてよ……諦めて…傍に居てよ…もう…寂しいのは嫌…」


むせかえる血の匂いだけが、二人のいる空間を取り巻いていた。








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