最後の書類を机に放り投げて、アルヴィンは己の座る背もたれのついたオフィスチェアーにどっかりと身を預けた。 疲れを逃がす為の深いため息を共に逃すと、いつの間にか無表情で傍らに佇んでいたスーツ姿の青年に侮蔑の眼差しを向けた。 「お前はもう少しにこやかで控えてられんのか、エドガー」 そう問いかけながらアルヴィンは青年の撫でつけたブラウンの髪にそっと触れる。 それを綺麗に流すと、青年―エドガーはかけていた眼鏡をそっと押し上げてから静かに口を開いた。 「貴方がそうしろと仰ったはずですが、アルヴィン」 「俺は気まぐれだ、猫の様にな。それも分かっているはずだろう?」 アルヴィンの手はそのままエドガーの眼鏡に掛かり、第一関節を曲げた人差し指が眼鏡の縁を引っかけて攫う。 眼鏡の外れた顔からは白磁のごとき白い肌と、ローズレッドの瞳が覗いていた。 だから自分はこの青年を攫ったのだ―アルヴィンはひそかに心の中でほくそ笑んだ。 バラをワインで染めた様な美しい瞳。感情の無い表情の方が相応しく思える白い肌。 その肌に己の指を滑らせて、アルヴィンはやっと満足そうに微笑んだ。 それを見やってエドガーはやはりニコリともせずに淡々と彼に問いかけた。 「今更私にニコリとしてほしいですか?」 「……物の例えだろ…ったく、お前が俺の事をよーく分かっているのが分かったよ」 苦々しく吐き捨てた後、アルヴィンはエドガーに向かって更に問いを投げた。 「……ルナは?」 「全くお忘れですかこのアホ主人。潜入は厄介な所だからと連絡手段を断ったのは貴方でしょう」 呆れた様にエドガーが呟くと、アルヴィンは不貞腐れた様にそっぽを向いた。 「あの子はほっとくのが心配なんだ…何処に行くか分かりはしない」 「それは首輪を繋いでおかなかった貴方が悪いんです」 「…本当にお前は俺にだけ手厳しいな」 くしゃりと子供の様に表情を崩した己の主人を、エドガーは少し哀しそうに見つめた。 彼が慈しみ愛している彼女とじかに会った事はないが、いつも彼は彼女の事ばかり話しているのを秘書である自分は良く知っていた。 彼と彼女の出会いもすべて彼から聞いて知っている。それに際して彼女にしか出せない主人の表情を少なからず憎く思う時もあった。 しかしそれだけだ。 自分は自分の感情を口に出す権利を与えられてはいない。しかし主人が出した感情を受け止める事は出来る。 その中に自分と居る時でしか出してくれない感情がある事も知っている。それが自分に確かな感情と―恍惚に近い優越感を与えてくれる。 「…逃げられるのがお厭なら、今度こそきちんと躾けておけばよろしいでしょう」 今度はエドガーの方からその手を伸ばし、主人の冷たい頬に触れた。 深海の瞳がじっくりとこちらを見上げる。誰も知る事の難しい海の底の暗い蒼。 「…俺は放任主義なんだよ」 「本当に、彼女には甘い」 「……らしくないな、ジェラシーか?」 「そう思って下さって結構」 ふい、と感情を漏らさぬ様そっぽを向くと、今度は主人にクスリと笑われてしまった。 話を逸らす様にエドガーは、先程から話題にしようと思っていた事をそっと唇に乗せた。 「……時に我がご主人様。インヴィディアの事ですが…」 「何?」 その話を切り出した途端、アルヴィンの表情がガラッと冷酷なものに様変わりした。 肘かけに右肘を着き、手の甲に顔を乗せた彼の瞳は人を殺す時のその表情だ。 彼にとって、インヴィディア、アンナ=ロッサはただの部下―それ以下に過ぎない。 彼にとって自分の下にいる者は使い捨ての存在の様なものだ。仕方ない事とはいえ、エドガーはそれでも冷静に話を続けた。 「…かいがいしく己のご主人様に尽くしてらっしゃいますよ。今彼女のご主人様は警察からある事件を与えられて、それを追っているみたいです」 「…インヴィディア…セブンシンズの追加物。 あれは他の者たちより多少聴き分けが良くて行動が早いから俺も多少望みを叶えてやった。 彼女のあの感情は、嫉妬という感情は嫌いではないからな。しかし」 ギリィ! とアルヴィンの拳から音が零れ、彼の歯が剥き出しになる。 「カイン! あの化物…ルナを穢したゴミ! アイツがまさかインヴィディアの主人だとは最初思いもしなかった! 何故アイツがルナの傍に居た? 俺の大切なルナ、愛おしいルナに! 畜生殺してやる! だったら今すぐ殺してやる!」 「落ち着きなさい。今殺しても何のメリットも無いでしょう。 無益な殺生をするくらいなら、カイン=ノアールにメリットを作ってから殺したらいい。いつもの貴方通りに」 その言葉にしばらく沈黙したアルヴィンは、やがてゆっくりと口角を持ち上げた。 「…そうだ…ただでは死なせない。元々死を望んだ種族だ、ゆっくりと絶望を。おのずと死を望む位の絶望を与えてやらないとな」 「そうですよ。それでこそ我がご主人様です」 ありふれ出た狂気を持て余したアルヴィンの傍らで、無表情なエドガーのローズレッドの瞳に、僅かに狂気という感情が通り過ぎた。
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