皮肉にもまた、この場所に立つ事になろうとは思わなんだ。カインは静かに息を吐いた。
あの、塩漬けの遺体が置かれた薄暗い部屋に、今度は一人ではない。隣にアンナが青白い顔で立っていた。真っ直ぐな黒髪、震える長いまつ毛の下、空の色を薄めた様な儚いアクアマリンの瞳が衝動に耐えるかのように揺らいでいた。

「結局」

やがて彼女の口から、残念な結果が零れおちる。

「この肉片の正体を完全に探るのは、砂漠の中に落ちた指輪を探すみたいなものよ」
「身元が割れているのにか?」
「だからこそよ」

そう言って彼女は口をつぐみ何か考える様な沈黙を保った後にまた口を開いた。

「アーベル=フルトブランド、まるで普通の人間だった。何も出て来ないのよ、貴方のPCに送ったデータも見たでしょう。何もないの、何も出て来ない。だからこれ以上の事を探すなんて、この肉片の細胞を調べるくらい」
「なら、お前の力でこれを調べて欲しい。出来るだろ?」

アンナの肩を掴んでこちらに振り向かせ、真っ直ぐにその瞳を捉える。こちらと視線が合った途端に震える瞳。

「今はどんな情報でも良いから欲しい。やってくれるな」

有無を言わさぬその物言いにアンナはふい、とそっぽを向いてから卑怯だ…と小さく呟いてから言葉を続けた。

「…やる。……やるから、離して」

アンナが腕を動かすと、ようやく自分が彼女の肩を掴んだままだと言う事に気がつき、慌ててその手を離した。そうするとアンナは静かに遺体の前に立ち、そっと手をかざした。

「私の専門外なのよ、こういうのは…貴方も知ってるくせに」
「専門外でも出来る事は知っている。……今思い出した」

しれっと言い放つカインの言葉を背中に、アンナの呆れた様なため息が広がった。ゆるく首を振ると、まっすぐの黒髪がさらりと揺れる。拍子に見えた白い肌にあの日の2つの穴を見た気がしてカインは思わず視線を逸らした。思い直して見返すが、白い肌には傷一つない。当たり前だ―彼女の不死は俺が与えた。
目の前で規則的な呼吸が続いた後、アンナの額から汗が伝い、ぴちゃりと床に音を立てて落ちた。それが静かに円を描くと、不意に球体の形を取り、宙に浮いて弾けた。驚くカインをよそにアンナが口を開いた。

「…水。…海、魚、……くっ…それだけよ。……これは彼が置かれていた現場の話よね、これ以上は視えないわ…」
「…俺も同じだった。……ふむ。これがキーワードなんだろうな…もう一度現場に行くべきなのだろうか」

腕を組み、右手で顎に触れた姿勢のままカインが考え込む。その様子をじっと見ていたアンナはしばらくその様子を見ていたがやがて隙をついて言葉を挟んだ。

「……行ってみる? もう一度」

伺う様な視線を受けて、カインはその視線を追いアクアマリンの瞳を見つめ返した。薄暗い部屋に輝くアクアマリンの瞳が異質にも思える。

「……ああ」
「……ならまた手配しておく。そう時間はかからないと思う」
「そうか、ならもうこれに様は無い、仕舞って貰う様に手配してくれるか」

頷くアンナを見やってから、カインは踵を返して扉に向かい、外へ出る。後から続いたアンナは俯いたまま扉をくぐると、カイン、と小さな声で呼び止めた。振り返り彼女を見ると、突如アンナの手が伸びてカインの顔に絡みつき、彼女の身体が懐に潜り込む。女性特有の柔らかな肉体は己と同じ体温を保っている。ほっそりした手が頬を包み、こちらの瞳を逃さんと獣の様に捉えている。
―その瞳が、いつの間にか赤く染まっていた。

「……分かっている、アンナ」
「カイン…」
「分かっている」

そして黙って彼女に首筋をさらけ出すと、アンナが勢いよくその牙を肌に突き刺した。





アンナに遺体をしまってもらう手配を任せ、部屋への帰路について電光の瞬く通路を歩いていると、目の前にブロンドの髪を緩く結び、黒いトップスの上から白い白衣を羽織っただけの美しい男が腕を組んで窓に身体を預け、こちらを静かに睨んでいるのに出くわした。

「…何か用か」

そう問いかけると、その男は少々ムッとしたようだった。綺麗に整えられた金の眉が真ん中にきつく寄せられると、組んでいた腕を解いて身体を持ち上げた。

「今ならそれまでアンタに付き添ってたルナにも、あのベナンダンディの娘にも大いに同情できるな」
「…! お前は誰だ」

き、と眦を強めると、その男はハン、と嘲る様に笑いを吐いてこちらを睨みつけたままカインに言い放った。

「誰だっていいだろうか。強いて言うなら月の女神の忠実な騎士ってとこだよ。狼より、アンノウンよりずっと前からな」

そう言ってその腕を伸ばし、突如カインの胸倉を掴みあげる。驚いて目を見張ると、彼はその憎悪を滲ませる瞳を変わらずこちらに向ける。その憎悪はそこら辺の人間が持てる物の比では無い様な気がした。いいか、良く聞け、とその男が低い声で唸る様に言った。

「金輪際、ルナの事は忘れろ」
「何……」
「あの子に対して犯した己の罪を考えろ。己の本能故に作り出したあのベナンダンディの娘の事を考えろ。そして思うなら近づくな、ましてや愛そうなどと二度と思うな」

ぐい、と更にその胸倉を掴みあげたその男は、更に声を荒げて言った。

「もっと分かりやすく言おうか? 俺はあの子の騎士だ唯一無二の騎士だから、あの子を傷つけたお前が大嫌いだ。あの子を泣かせたお前を嫌悪する、憎悪する。そう言う事だよ」

言い終えて、男はブンッ! と音を立てて腕を振り、カインをそのまま地面に叩きつけた。成すがままになったのは何も言い返せなかったからだ。地に落ちた自分を男の瞳が見下ろして言った。

「…憎たらしいお前だが、一つだけあの肉片の事について教えてやる。事件発覚から大分日が経っているのに、あの肉片に腐食の傾向は見られない」
「……塩漬けになっているからじゃ、ないのか」

カインがそう返すと、男はその人間離れした美貌を醜く歪めて吐き捨てた。

「は、中世の人間が血抜きをして豚肉を塩漬けにして食べたのは、ある程度の『日持ち』がするからだよ。あの遺体はそうじゃない、一向に腐食しない。その傾向すらない。それを知った時、俺は少なからず戦慄を覚えた。……あれは本当に人の肉か? そう思って調べたが肉体に人間を変わらない」
「なん…だって…?!」
「それは果たして呪いなのかそれとも遺伝子で分かるのか、それはこれから調べるとするが、それだけ教えてやる」
「……何故だ」
「何故…?」

冷やかな物言いと視線がカインを貫き、ひやりとさせた後に男は同じ口調で一言告げた。

「あの子の為だよ。お前じゃないあの子の為だ」

眼差しが哀しげな物に変わった途端、男は白衣を翻して暗闇の中に消えて行った。







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