他人からしてみれば、至極単純な理由だったろう。 だけれども俺は本気だった。 あの瞳が、15年間焼きついて離れなかった。 何も映さない、光を忘れた夜のような真っ暗な瞳。 初めて見た時、俺はそれを壊してやりたいと思った。 俺ならあの瞳に、光を灯してやれる。笑ってくれる。 見たのはそれ一度きり。 でも俺は忘れなかった。あの瞳も。この想いも。 思春期に差し掛かったとき、それは一目ぼれだと知った。 彼女への想いは、募るばかりだった。 15才で親父やその友人の強豪と呼ばれるディ―ラー・ギャンブラーから教えを受け、16才で単身フェースに渡った。 フェースはカジノの有名地の1つで、親父のツテが沢山あったから。 そこで約6年―丁度21才になるまで、俺は修業をし続けた。 戻ってきたのは賭けだった。 再び彼女は此処に戻ってくる。 そんな手探りのような賭けに、俺は15年という巨額のチップを積んだのだ。 〈ならば勝たなければ意味が無い・・・・・・〉 しっとりとした静寂を孕んだ開店前のカジノの中、土城氷月は1人ごちた。 父親譲りの秀麗な美貌は今はどことなく陰りを見せ、日の光で薄明るい室内に恐ろしい程よく合っている。 明け方の森林に発生した霧の様な灰色の瞳は憂愁の色を見せ、彼はそんな瞳の中淡々とテーブルを拭いていた。 〈マラスプラッド、イオシス、テオニトア・・・・カジノにある処なんて数知れてる・・・彼女がまだ操人形(マリオネット)をやっているのなら、また此処に来るはず・・〉 計算づくかもしれない。 でもそうでなければ勝てはしない。 これは彼女との、最初の勝負なのだ。 〈絶対に・・・来る!!〉 灰色の瞳にゆるぎない強い光が灯る。 一通りテーブルを拭き終わり、ちらと手首の腕時計を見やる。 1:30。開店までまだ時間はある。 〈少し一息つけるか・・・・?〉 1時間前には誰かしらやって来るだろう。一通りのことはやってしまったし、少し眠れるか・・・ 「やってるな、新入り」 軽い厚みを含んだ、低トーンのボイスが氷月の耳を叩いた。 振り返れば、肩まで伸ばした銀髪を後ろでだらしなく纏めた中年がこちらにやって来ていた。 「オーナー」 長身の少し厚みのある胸板。だらしなく束ねた髪がほつれて顔にかかり、彼の皺を刻みながらも美しい顔に花を添えて見る者を思わずぞくりとさせる。 とても48才とは思えない。てゆーか詐称してんじゃなかろうか。 「今日から本格的にやってもらうからな。まぁ頑張れよ」 「はい」 そんな彼を見やりながら、氷月は出来る限りの微笑を浮かべる。 それを頭1つ分見下ろす形で彼―ルシオ=クロッスフォードは恍惚に充ちて言った。 「ホントに泉青そっくりだなぁ。きっと紳士淑女にモテるぞ」 「ははは。せめて淑女だけにしといて下さい」 ルシオはフルフルと軽めに首を横に振る。 「いやいや。泉青だって今でも男にモテるからな。何せ俺があいつがディーラーじゃなきゃそばに置いておこうと思った位だからなあ」 そう語る瞳は恍惚に満ちて氷月に向いている。 〈・・・この人はその気があるんじゃなかろうか・・・〉 少々身の危険を感じつつも、氷月は精一杯の笑みを絶やさなかった。 「で・も」 ぱっと突然降参のポーズをとり、ルシオは軽く笑い声を上げる。 「氷月はずっと惚れた女がいるんだったなぁ?」 「なっ・・・!」 驚愕のあまり氷月は思わず後ずさる。 からかう様な視線がじっとこちらを見つめ、やがて柔らかな笑みが含まれる。 「俺はちっちぇ頃からのお前を知ってるんだぜ?泉青が夜月――お前のかあさんと出逢った頃からな」 バンバンと肩を叩きながらルシオはアハハと笑い続ける。 「確か緋室有夜、だっけか。来たのは14年?15年くれえ前か。あの時は結構話題だったなぁ。人形賭事師(マリオネット・ギャンブラー)≠チてな!」 「そうなんですか・・」 「ああ、お前は知らないか。一度きりだからな来たのは。無理ねぇか」 皿のように目を見開いて彼は呟いた。 「まぁお前の父譲りの才能と美貌に免じてあの子が来そうなポーカーテーブルに付かせてやるよ。今日はそれだけ言いに来ただけだから。じゃあな」 ゆったりとした笑みを湛えて、銀髪のオーナーはゆらりとその場を去っていった。 「有夜」 しわがれたしかし確かな重厚感のある声が広間に響いた。 それに機械のように規則正しく、彼女は振り向いた。 目を上げれば細面の顔に取って付けたかのようなたっぷりとした髭をまとわり付かせた老人が、見事な装飾の杖を付きながらこちらに寄って来ている。 呼ばれた少女――有夜はそれを光のない瞳でちらと一瞥してこともなげに言いやる。 「おみ足に響かれますよ、おじい様」 「このくらいでは折れはせん」 「では」 有夜は着ているレースのスカートを浮かせ、老人の方へと向き直った。 「こうまでして私に歩まれている理由は、何ですか?」 老人はこちらに聞き取りにくいような音量で軽いため息を付いた。侍女から、この口調が前々から老人の気に触っていることは何となく聞いていた。 「・・・まあいい。妙後日から新しいカジノに行ってもらう。といってもお前は一度訪れているが・・」 「どこですか」 「カジノ・クルーズだ。ホテル・レムスの中に併設されている」 「・・・・・・」 「不満そうだな」 老人が頭を傾げた。 「いえ」 「改装したから、昔とはだいぶ様変わりしている。思い出すことは無いだろう」 「最大限のご配慮、いたみ入ります」 「初日は私も同伴する。ホテルの融資の件で関わったから、顔出しに行かねばならぬからな」 「そうですか。分りました」 それだけを聞き取って有夜はまたひらりとスカートを浮かせて老人を後にした。 〈クルーズ・・・〉 歩きながら、その単語を噛み締める。 苦々しい味がする。奥のほうでぴりりと痛みが来るような痛み。 〈まあいい・・・〉 思いを振り返るように頭を振る。闇のような鴉色の髪が宙に舞った。 過去のことだ。今とは現状が違う。 自分自身に言い聞かせる。何度も何度も、押さえつけるように。 〈違うんだ・・〉 クルーズ。今度はその名の通り、船出にするのだ。 自分自身の、過去からの船出に。 母の腕に抱かれたことは、一度も無い。 記憶に居るのはいつも父だった。 母は隅の方で、賭博を教え込まれる私を泣きながら見ていたのだという。 そして4才の頃、父に手を引かれ夜のカジノに連れて行かれた。 いつものように機械的に勝ち続けると、何故だか私を囲んでいた周囲の大人たちはきゃあきゃあと喚き、私を褒め称えた。 その後も様々な国に飛び、その国のカジノで勝ち続けた。 負ければ父に睨まれ、人が居なくなれば叩かれるのが怖かったからだ。 父を憎んだ。 でも抵抗出来なかった。 私は常に憎悪と恐怖の中に立ち尽くしていたのだった。 その父は12才の時、あっという間に殺された。 入り組んだ汚い路地裏で、まるでゴミの様に。 父の死体の前で私は、自由と開放感で思わず笑ってしまった。 これで私を縛るものは無くなった。 私はもう自由だ。そう思った。 しかし父の死霊は常に私に憑いてまわっていたのだった。 それはある時、家にステミエール家の人間が来た時だった。 使用人らしき彼は白い紙をはためかせて言った。 お父上は借金の肩代わりをこちらに頼む代わりとして、娘を養子に出すと契約書にサインしたのです。 つまるところ、父は私を売ったのだ。 絶望。 母はその7日後、耐え難い現実から逃れるように車に飛び込んで死んだ。 絶望絶望ゼツボウ絶望ぜつぼう絶望。 私は壊れてしまったマリオネットのように、ステミエール家に拾われた。 主のラジェック=ステミエールには身寄りも子供も居なかった。 いや、居たのかもしれないが、大きな屋敷にはそれらしき人は全く見かけなかった。訪れもしなかった。 彼は時代を経た大きな老木を思わせる存在感でその屋敷を支配していた。 彼は私に全ての環境を整え、物を与える代償として私の能力でカジノで賭博を続けろといった。 その能力を埋めることも無いだろう。負けてもいいから、賭事師は続けなさい。 そして私は再びカジノに戻った。人々の欲望渦巻く摩天楼へ。 私はまた機械の様に勝ち続けた。 いくら人間のように笑おうとも、もう笑えなくなっていたのだ。悔しがることも出来なくなっていたのだ。 人形(マリオネット)の様に勝つことしか知らないから。人間らしい賭け事を知らないから。 父が、父の教育が細胞の奥にまで染み付いているのだ。 私は思った。 操り人形はその糸を切ってももう人間にはなれない。 もがけばもがくほど糸が絡まるような苦しみに苛まれた。 父の死霊が、後ろで笑っている気がした。 私の心は、全てが凍て返る氷のようになっていった。 |