季節はやがて、梅雨となった。
それは毎日のように瞳を曇らせ、大量の涙を流していた。 おかげで僕は普段ろくに見もしない窓からの景色を眺めることが多くなった。 ある日その中でふと見つけた紫陽花の花が、何故だかとても美しく、そして少し、哀しく見えた。 それから間もなくして例のあの老婦人から連絡が入り、僕とその老婦人の娘であるという彼女との一日が告げられた。 その前の日、僕はふらりとコンビニに立ち寄った。 特に買うものもなく、ぶらぶらと店内を徘徊する。 さんざん回った挙句、よく買うお気に入りのアメとガム、缶コーヒーを手に取る。 ふと、出口付近に陣取っているビニール傘が目に止まった。 「・・・・・・・」 雨は珍しく降っていない日だった。 僕は何となくそれも掴み、レジへと持っていった。 彼女と出会う日の始まりは、朝から雨がしとしとと降り続くどんよりと思い空だった。 僕は前の日コンビニで何となく買ってしまった透明なビニール傘を差し、家の前でじっと迎えを待った。 しばらくして騒音と共に目の前に一台の黒塗りの車が止まり、窓からあの老婦人が顔を出した。 彼女が乗って、というとドアが音も無く開き、僕は慌てて車に乗り込む。 「待ったかしら」 僕はいいえ、と軽く首を振った。 そうした後、高級そうな車の車内をぐるりと見渡した。 〈この人は、一体・・〉 そして何故娘は十九歳で死んでしまうのか。 何故、看取るのは僕であるのか。 聞きたかったが、そこは約束なのでぐっと我慢する。 「どの位で着きますか」 老婦人は微笑んで、一時間少々と答えていった。 それを聞いて、前日あまり眠れなかった僕の意識は徐々にまどろんでいった。 「ねえ」 眠った意識の中、僕は不意に老婦人の声を聞いた。 僕は慌てて必死に眠気を向こうへやり、頭をもたげた。 老婦人はおこしてごめんなさいと、苦笑し、 「向こうに着く前に、少しだけお願いしたいことがあるの」 「はい・・?」 彼女は穏やかな声で言った。 「一つは、彼女と居る時、貴方はいつも通りにしていて欲しいということ。下手に気を使うとか、同情をされれば、あの子はとても傷つくの。感受性が強い子だから尚更」 「はい」 「もう一つはね」 言いかけて、老婦人は一旦申し訳なさそうに控えめな笑みを浮かべた。 「もっと言えば、これがとてもむつかしいのかもしれないわね。・・・もう一つはね、最期まで・・・あの子の最期まで、貴方には笑っていて欲しい、ということなの。哀しい顔とか、泣き顔じゃなくてね。・・・・・でもまあ、男の子は滅多な事では泣きはしないわね・・・」 「そんなことないですよ」 僕は軽く微笑んで老婦人を見やった。 「そうなの?」 老婦人は意外そうな眼差しでこちらを見返した。 「人ですから」 その言葉に老婦人はそうね、と泣き笑いのような笑みを浮かべた。 「でもそれだけはお願いしておくわね。・・・・もう今以上に、彼女には哀しい想いはさせたくないのよ・・・」 言って老婦人はふっと窓の外の景色に目をやった。 その瞳には、とても静かな哀しみが漂っていた。 この人は、そして彼女の娘は、一体今までどんな言いようのない数多くの哀しみを味わいつしてきたというのだろう。 それは決して、今の僕には分からない。 人の痛みという痛みは 鉄のように 重く 冷たく ナイフのように キラリと鋭く 時が経ってなお 鋭い痛みを持ち 受けた者の 心に刺さる だからきっと その痛みは 哀しみですら きっと他人には分かりはしない まして他人が それを安易に聞いたりすれば 今よりももっと ずっと 痛くてたまらないだろうから それからまたしばらくして、車は降り注ぐ雨の雫をたっぷり含んだ木々が生い茂る深い森に入っていった。 少しして、木々の濃い緑の中、まるで何かの研究所を思わせるような白い建物がぽつんと一つ、淋しそうに建っていた。 その建物の前に車は止まり、僕はバタンと閉まるドアの音を背にして車から降りた。 「一ヶ月くらい前・・・だったかしら。ここに来たの。彼女、森や木が好きだから・・」 「その一月を・・・ずっと?」 「ええ。親しい者すらめったに寄せ付けずに・・・・」 「・・・・・・・」 傘を差し、その入り口まで来ると、突然老婦人は私はここまで、と足を止めた。 「何故・・・?」 老婦人はにこっと淋しげに微笑んだ。 「彼女と一日だけ一緒に過ごし、最期を看取ってあげて、と。・・・・今日はそういう約束なのよ。最初で最期で、たった一つだけの、あの子との約束・・・」 この時僕は思った。 この約束もまた、この人の哀しみの一つだと。 そしてこの人は、この約束を決して忘れはしないだろうと。 ずっと、ずっと・・・。 哀しみという、想いに変えて。 濁り色あせた空の下、僕は雨の哀しみと出逢った |