海になっても、誰か私を覚えていてくれるかな その呟きを、僕は今も忘れられない
 




「海へ行こうよ」
午後一番に彼女はこう言った。
どれくらい居る?と聞くと、彼女は一時間ぐらい、と懇願した。
「近いの」
ん――・・・と顎に人差し指を当てて考え込み、
「歩いて十分十五分くらいかな」
分かった。じゃあ一時間だけだよ。
彼女は付け足して、ごめんねと謝った。




彼女に連れられて辿り着いたのは、何故だか海ではなく川だった。
流れる水によって削られた土が顔を出し、小さな草が海草のようにゆらゆらと川の端でその身を漂わせていたりした。
「・・・・・・・・・海じゃ、ないよね?」
拍子抜けして僕が尋ねると、彼女はけろっとした顔でこう答えた。
「やがては海になるでしょ」
「いや・・・そうだけど」
「川も捨てたもんじゃないよ」
にこっと笑って川原に腰を下ろし、水中に足を入れる。
僕は相変わらず唖然としていたが、立っているのもどうかと思い、彼女と同じように川原に腰を下ろした。石がゴツゴツして痛い。
黙っていると、遠くで鳥がピチチチチ・・・・とさえずっているのが聞こえた。
川を見る。ちゃぷちゃぷと波打つ音がしている。
小さな小石が水流に負けてコロコロと水中を転がっていった。
  彼女はきっと、この最後の日までに一日中歩き回り、此処を見つけたのだろう。
幼い少女に戻り、おとぎの森に迷い込み、大木の鼓動を心の糧とし、あの白い部屋でぐっすりと眠りについたのだろう。
たった一人、迫り来る「己の終わり」の恐怖と戦いながら。
僕は聞きたくて仕方なかったが、それはきっと、彼女を傷つけるだろうから止めた。

死ぬのは、怖くないの?・・・

そう、彼女の笑顔はきっと、たくさんの涙の結晶だから。
パシャンッ!!!
突然、頬に冷たい水がかけられる。
「びっくりした?」
目の前に視線をやれば、川の中に悪戯を喜ぶ子供のような彼女の笑顔。
僕は軽くため息をついて苦笑した。立ち上がり、脇の小石を拾う。
「水きり、出来るかな」
「何?」
「水きり。石を投げて水の上で飛ばせるんだ。それで何回飛ぶかってやるの。こういう風に」
ヒュッ!!
小石は空気を切り、水面を二回飛んで沈んだ。
「うまくやればもう一回くらい飛ぶんだけど」
それでも昔はぜんぜん飛ばなかった。下手くそだった。
「違うのよ」
「何が?」
彼女は僕を見上げて真面目な顔で言った。
「その一回はきっと、石の意思なのよ。もうこれ以上は飛べないっていう」
「洒落?」
「本気よ」
むっとした顔でこちらを睨みあげる。
「ごめん」
彼女はすぐにいいよ、と笑い、それから小石を拾い上げて言った。
「水きり。教えてよ」
僕はまた手ごろな石を拾って笑い、
「こういうのって、教えられて出来るもんじゃないんだけどね」
「そう?」
「見て覚える。後は何回もやるだけ。理屈じゃないんだ。まあ、教えられるっていえば、なるべく平たい石を選ぶとか、こう横に・・・スライドさせるように・・・・横に切るように投げるって事くらいかな」
ヒュッ!!!
今度はうまく三回飛んだ。
「成程」
彼女は頷き、見よう見まねで同じように石を投げる。
ヒュッ!
石は一回飛び、すぐに音を立てて沈んだ。
「ホントだ。すぐには出来ないものね」
怪訝そうに眉をしかめる。
僕はくすっと笑い、
「でも今一回は飛んだでしょ。もう少しやれば二回は飛ばせるよ」
「ホント?じゃあ頑張ってみちゃうかな」
彼女の顔が瞬間ぱっと輝き、再び石を拾い上げてえいやと川に投げ始めた。
僕は時折アドバイスしたり実践したりして彼女を見守った。一時間はとうに過ぎていたが、彼女は夢中で石を投げ続けていた。



タンッ・・タタンッ・・ポチャン・・・
「やった!」
水面を二回跳ねる音と石が沈む音が続くと、彼女の明るい歓声が上がった。
「出来た!出来たよ!」
くるっと振り向いて無邪気な笑顔を見せる。
まるで十九才とは思えない、小さな子供のような笑顔。
僕は精一杯の笑顔で彼女に応えた。
「やったじゃん」



これは約束だ。
たった一日だけの約束だ。
だけど・・・
だけど彼女が後何時間で死んでしまうと思うと
どうしようもなく胸が、張り裂けそうに痛むのは・・・・何でだろうか。







やがて私は海になる






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