4. 天に届きそうなビルの上で、真紅は目の前に浮かぶ満月にそっと手を伸ばした。 掌は月の光によって輪郭を無くし、ぼんやりと見えにくくなる。それをしばらく味わっていると、後ろからコラ、と声を掛けられた。 振りかえると、途端に身体を抱きとめられ、彼がしゃがみ込んだのにつられて両足もバランスを失う。 すっぽりとその腕に収まってしまった自分を見下ろしているのは、昼間と同じではない、 今やその瞳を血の様に紅く染め上げた自分だけの『鬼』だった。 「紅」 使役する為の名を呼ぶと、彼はやや遅れて何だ、とふてぶてしく答えて言った。 その前頭の両サイドから突き出した二つの白い牙の様なもの―それは鬼の角だ。 紅が何かを言おうとして口を開けば、同じように真っ白な牙が覗く。 ―私だけの、鬼。 そう自分の胸の中だけに言い聞かせて、真紅はいつも満足を得る。思えば本格的な恋愛感情なぞ、一度も感じた事は無い。 己の中で息を潜めるのは唯―鬼を使役するという『快感』だけだと思う。 それでいいのか。それだけではいけないのか。 ―そんな事、今更分かりはしまい。 だから今はそれだけでいい。目の前の鬼は自分の身体を抱えたまま、月灯りを背に従えながら 至極真面目に言い放った。 「俺を使えよ、真紅。お前の欲望を叶える為の力を、俺の欲望を叶える為の力を、俺に与えろ」 抱きとめる力がぎゅう、と強まる。じり、とその瞳の『アカ』を強くした紅を、やがて真紅は満足げに見上げてから命を放った。 「なら、奪いなさい。私から奪う方法を、教えてあげたでしょう」 そう言い放つと、紅はニヤリと笑って真紅のワイシャツの隙間に手を差し込み、その首に掛かった銀色のチェーンを指先に引っかけて取りだした。 そこに掛かるのは幾重にも文字が織り込まれたシルバーリングだ。 見てくれは何の変哲もないものだが、二人にとっては重要な意味を持つ。 それと同じリングが紅の右手の薬指にはまっているのを視界に落とし、真紅は微かな笑みを保つ。 そのリングを引っ張り上げると、紅は静かにそのリングに唇を落とした。 途端に白い光がリングから発光し、駆け上がって紅の唇に吸い込まれていく。 それを飲み込んだ後、ペロリと唇を舐め上げると紅は真紅を立ち上がらせてからいつもの彼に相応しく不敵に微笑んだ。 「遂せのままに、我が主」 その笑みを見て真紅の内に安堵と共にたちまちに不安がよぎる。今もどこかで、アレは私達二人を見ている。 それを今も感じているのだ。あの瞳の『アカ』が、頭の中に、瞼の裏に、その声がべっとりと耳朶に張り付いている。 『オイデ』 『オイデ…ワタシノアカ…』 『ワタシト一つになる事を…オマエハ望んでいるんだろう…?』 『そのアカを捧げて…』 ゾク…僅かに悪寒が背中を駆け上がった。思わず両手で己を抱きしめる。 それを見た紅が、真紅を腕に抱きしめたままぎゅう、と力を込めた。 驚いて紅を見上げると、彼はその顔に不敵な笑みを刻んだまま一言、大丈夫だ、と言い切った。 「あんな事になったら、次は絶対止めてやる。言ったろ? 俺はお前の欲望を叶える為にこの命使って何だってしてやるよ。 お前が望むならたとえどんな絶望でも叶えてやる。それがたとえお前を殺す事でも」 そして真紅の身体を片手で抱えながら、紅は軽く飛び上がった。 あっという間に今までいた世界は足元になる。ビルを飛び越え、目的の場所を目指す。 耳元で風が唸りを上げて絶叫するのに耐えていると、ビルをひょいひょいと超えて行きながら紅は真紅の耳元で大声を上げて叫んだ。 「だから! 俺達は契約した! そうだろぉ真紅! 俺のご主人様、俺のオヒメサマ! 俺の世界はただお前だけの為にある!」 月灯りが瞬間にして彼の赤い瞳を照らす。まばゆい、それは血の色よりもまるで人を魅了するルビーの様な輝きを放っていた。 紅の言葉が彼なりの励ましなのだと気づかされて、絶叫を上げ続ける風の音を聞きながら真紅はばぁか、と苦笑して、対抗する様に大声で叫んだ。 「分かってるわよ! アンタは私の為に、何でもするって事くらい!」 「それで良いんだよぉ! いくぞ!」 途端紅のスピードが加速し、真紅の世界は瞬間に霞んだ。
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