先程の彼女の凛とした、涼やかな視線は最期までカインに向いていた事を、気がつかない訳がなかった。二人はきっと廊下で話しているのだろう。その詳細を、カインは教えてと言えば教えてくれるかもしれない。でも聞きたくはなかった。ズキン、ズキン。先ほどから頭痛が酷い。話を終わらせたのも半分この頭痛のせいだった。能力は使っていないのに、なんでだろう。
あまりの痛みに目尻に涙が溜まっていく。
「・・・・ルナ?大丈夫?」
「・・・・うん・・・・・・」
ヴィオが不安そうにこちらを覗き込んでいる。ヴィオ。思わず手を伸ばしてしまいそうな衝動をかろうじて堪え、手を握りしめて身体に抑え込む。するとそっと背に左手が添えられて、ゆっくりと上下に撫でられた。その優しい手つきに固まっていた筋肉が緩んでくる。頭痛も少し和らいだ気がする。思わず彼を見上げてしまった。頭の中で誰かが言う。ダメだ。彼に寄りかかってはダメだ。
「・・・・・異種研に行って、ないんだね」
「・・・・なんの・・・こと・・・?」
「とぼけないで。頭痛、酷いんでしょ。頻繁なんじゃないの。」
ヴィオはそう言ってぐい、と肩を抱いた。彼の胸の中で抱きしめられている状態だった。どきん、と心臓が一つ跳ねる。
「ソファに座ろう」
その状態でそこまで連れていかれると、そっと慈しむようにソファに降ろされた。そしてヴィオ自身は自分の前に膝をつくと、両腕を掴んで上目づかいにこちらを見上げた。その灰色にラピスラズリを混ぜ合わせた様な色は今深く濁って、哀しげだった。そのまま数十秒見つめた後、ヴィオはゆっくりと唇を開いた。
「・・・・・俺じゃ・・・・頼りにならない?」
「ヴィオ・・・・」
スル、と手が伸びて、手首をそっと撫であげていく。生ぬるい温度が皮膚を通してじん、と伝わってきて、身体の中に入ってくる。優しく。優しく。腕を持ち上げられ、指先に唇の柔らかな感触が当たった、と思った。ぐら・・・・意識がだんだんと薄れて、霞がかっていく。
視界までも霞んで、最後にぼやけた姿のヴィオが哀しげに呟くのが遠くで聞こえた。
「ヴィ・・・オ・・・」
そう言ってゆっくりと目を閉じた彼女をヴィオはそのままそっとソファに横たえる。あまりの鎮痛な姿に、思わず術を使ってしまった。弱っている人間に少しだけ自分の精気を吹き込むと眠らせる事の出来る自分流の催眠術。あまり使う事はなかったけれど。
彼女のゆるやかに波打った髪をそっと撫ぜる。涙の痕が残る頬をそっと拭って、唇に押し付けた。口の中に彼女の涙の味が緩やかに広がる。
「・・・・俺にとっては誰が死のうがどうでもいい。・・・・・・・君が生きて笑ってくれさえすれば俺にとっては祖先の因果すら関係ない。ルナ・・・君が傍に居て、俺だけを見てくれればいいのに・・・・」
眠る彼女を前にして、ヴィオは悔しそうにうなだれるだけだった。
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長い廊下は夜になると人を飲み込む暗黒の通路だ。その先は地獄を思わせる。夜とはそういうものだ。しかし横に居る女はそんな事気にも留めない風に鼻歌を歌いながら歩いていた。
「ホント久しぶりね、カイン」
「ああ」
あの時と何ら変わりない顔で、否―今は髪が伸びた―彼女はゆっくりと笑みを刻みながら、涼やかなアクアマリンの瞳でこちらを見上げた。ミディアムロングの黒髪がゆらりと揺れる。
「あの時は心配したのよ?無事に生き延びたのか・・・」
「もともとそんなヤワじゃないからな。怪我も治っていたし」
「そうね。そして貴方はプライドも高い。易々と女一匹に世話される男じゃあないものね」
クスクス、と笑いながら、窓の外の灯りの群れに目を向ける。カインは口元に自嘲的な笑みを浮かべながらアンナに語りかけた。
「でも今は巡り巡って警察の犬だ・・・まあ、此処以上に安全なところはないからな」
「う、そ」
その瞬間、彼女のほっそりとした人差し指が唇に当たっていた。不敵に笑うその美しい顔に目が丸くなる。ふふ・・という声が耳に反響して、脳髄を浸食していく。
「貴方は女神の復讐をしたかっただけでしょう?貴方のアルテミス、決して手に入らない月の女神。あの子が死んだのは本当は此処にいるあの人の所為だと」
「口がよく回るなアンナ」
カッとなってパシッとその腕を掴む。彼女はあまり驚きもせず口元に笑みを浮かべたままカインの前に立った。直ぐにその腕を振りほどく様に離すと、カインはアンナから視線を外して蚊の啼くような声で囁いた。
「・・・・もう過ぎた事だ」
それを聞くとアンナは酷く目を丸くしてカインを見、そして確認するようにゆっくりとカインに問いかける。
「それは、あの子がいるから?」
「そうだ」
「そう・・・・・」
それを聞いたきり、アンナは口を閉ざして黙りこくってしまった。外の灯りの景色を見ながら無言で歩きだす。こちらも余計な事は口にしたくないので黙っているが。しかしあいかわらず何を考えているのか分からない女だ。考えていると自分が行ける範囲の限度の所まで来ていた。
「ここまでが限度だ。」
そう言うとアンナはそう、いいわここで、と綺麗に微笑んで背中を向けた。そのまま歩み始めるかと思いきや、5歩くらい歩いたところで急に立ちどまった。
「どうした」
「ちょっと忘れてた」
「何をだ」
振り向いた彼女が近づいてくる。
コツン。
立ち止まった音の、次の瞬間唇に柔らかい感触が触れて重なる。それが彼女のモノだと気がついた時には既に彼女は身をひるがえし、目の前で笑って手を振っていた。
「ねえ知ってた?男女間に友情なんて無いに等しいの」
「アンナ・・・・!」
怒号混じりに呼ぶと、彼女はそんな事も関係ないという風に目を閉じ、噛みしめるように首を左右に振った。顔を上げると、アンナはその整った顔を歪め、切なそうに目を細めた。
「・・・・・・・・・・・その声で呼ばれるたびに、震えるわ」
じゃあね。そう言って彼女は暗い廊下の先へと消えて行った。
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