車をカフェの近場に止め、約束通りカインとヴィオには入口から離れた所で待っていて貰う事にした。ヴィオは改めてその事を伝えると、やはりこちらも受け入れがたい様でむっつりとして分かった、と小さく呟いていた。

コツ、コツ、コツ、入り組んだ路地に靴音が響き渡る。此処は無法地帯だ。何十年も前に定められた建築法に乗っ取った高さなど誰知る事かと建てた物が密集し、それが群となって住民を護る様に立っている。今やそれについても誰も何も言わなくなっている。まあここの住人のトップが人狼の王でもあるヴィネだから、というのもあろうか。やがて見えてきたカフェの入口を見て、ルナは二人を振り返った。

「何かあれば叫ぶわ」

大丈夫、と心で囁けば、相変わらず表情は硬いままだったが、二人の強張った感情が少し緩んだ。入口に向かう途中で気をつけろ、と低く呻く様なカインの声が背中越しにかけられた。






入口のドアを―今はもう直ったらしい―開けると、もう彼の人物は先に来ている。ラフな感じでブロンドを撫でつけ、彼はYシャツの襟をそっと正した。黒いシャツはほっそりとした彼の白い腕によく映える。シャツの上からはさらにグレイのジップミリタリージャケット。ローライズのストレートデニム。その端正な顔には、左目がある場所に黒の眼帯が装着されている。綺麗なアーモンド形のグレイの瞳がおもしろそうにこちらの姿を捉えると、彼はやあ、と軽く右手を上げた。

「遅くなってごめんなさい」

「いいさ」

そして彼の前のソファに腰を降ろすと、機を図ったかのように奥の方からヴィネがうんざりとした表情でトレイを抱えてやってきたのが見えた。

「全く・・・どうしてお前が来るのかが不思議だったが、まさかルナと知り合いとはね。そうでなければ追い払ってやるところだったよ」

その言葉に彼はひひ、と喉の奥から引きつった声を零した。

「気を悪くするなよ人狼の王。俺は彼女の命を受けて馳せ参じるナイトだぜ?彼女の命には逆らえないし、逆らう気もない。彼女に狂おしい程狂わされている片目のナイトに過ぎない。王には興味もないさ。ただここのコーヒーは一品なんで通っちまうんだ」

「減らず口が、せいぜいルナを困らせてくれるなよ。」

苦々しく笑うと、ヴィネは静かにトレイを置き、それぞれにコーヒーを差し出してくれた。礼を言ってそれに口をつける。やはりいつもと変わらずに美味しい。笑みが零れた。

「お前の好みが変わっていなくて安心したぜルナ。勝手に頼んじまってわりぃな」

「いいのよ、ドゥ。貴方は私を裏切らないから。」

色々とね、と付け加えると、彼―フォリ・ア・ドゥはその右目を細め、うっとりとした眼差しをこちらに向けた。

「そうだ、俺の女王様。例の件も調べてきた。見せてやろう」

「ええ」

彼は傍に置いていたバッグから分厚い紙の束をバサッ、と音を立てて取り出しルナに手渡した。黙って受け取り、静かにめくって目を通していく。その瞳が驚愕で徐々に大きく見開かれていく様を、ドゥは至極嬉しそうに見つめていた。彼女のその黒曜石に似た瞳が大きくなっていくのはとても好きで仕方がない。緩やかに波打つウェーブの髪がとてもきれいだ。うっとりと眺めていると、彼女がドゥ、とその大きな瞳をハッとこちらに向けた。

「これは・・・」

「・・・・・・・そうだ、ルナ。見てのとおりだ我が女王様。今回の事件の被害者は皆祖先が異端審問官だったんだ。まあ素敵な事に魔女狩りに関わっていたであろう異端審問官たち、ってやつさ。それが彼らの共通点。変わったものもあったけどな」

「変わった・・・?」

ドゥはルナからその束をやんわりと受け取り、その束のある場所をく、と指を入れて持ち上げ、ページを繰ると再び彼女に手渡した。

「一人目の被害者、ウイリアム・ブラント。この家系はなかなか面白かった。ヤツはジョン・ブラントと前妻の子供だが、実はこの前妻はこの事件の1年前に事故で死んでるんだ。・・・・・・ここまでは調べ済みか?」

ドゥが問いかけると、ルナは黙って首を縦に降ろして口を開いた。

「当初、柵のないビルの屋上から突き落とされたのではないかと、これは事件性が考えられた為、当時の旦那のジョンが容疑者として疑われていたけど、その後彼にもアリバイが証明された為に犯人がいなくなり、結局最終的には事故として処理された。それ以上は・・・」

「十分だ女王様。その後ウイリアムは一年と立たずして今のマルガリータ・ブラントと結婚した。理由は知らないがな。知りたくもない。彼はブラントの姓を名乗り始めたが、それはどうもマルガリータの父親のせいらしい。父親は自分の先祖の追求のほか、悪魔学、民俗学なんかも研究していたという。それをジョンはそっくり受け継いだ。」

「それがどう関係してくるの?」

ルナは訝しがって聞くと、ドゥはくくく、と低い笑い声をこぼして言った。

「なあルナ。我が女神、俺の女王様、その甘さで俺をめちゃくちゃにするスイーツちゃん。マルガリータに会っただろう?そしてウイリアムは魔女について語っただろう?そしてあの額縁の絵、書かれた文字、『時よとまれ、お前は美しい』。あれは何の戯曲だった?」

「ゲーテ・・・ゲーテの「ファウスト」・・・マルガリータ・・!」

ハッと何かに気がついたルナを、ドゥは手を組み直し、そこにほっそりとした顎を乗せて見つめ優美にほほ笑んだ。

「気がついたな、聡い俺のレディ。そう、マルガリータはそのファウストに出てきていたグレートヒェンだ。マルガリータは彼女の愛称だよ。」




*************************


「と言っても、まさか戯曲の人物が実際する訳がねぇな。実際このファウストに出てきていたグレートヒェンにはモデルがいたと言われているだけだ。ゲーテが生涯で会った女の組み合わせだという説もある。まあこのマルガリータは父親が娘に名付けたんだろうな。何故か。それはお前が見せてもらった画にある」
「あの・・・?」

咄嗟にPCを取り出してあの絵の画像を取り出す。どちらの画だ?考えていると、いつのまにか背後からドゥが肩に左手をかけ、ほっそりとした右の人差し指をその画に向けた。
「この女の画。裏にあの字があったろ?『時よ止まれ、お前は美しい。』お前みてぇだな、かわいいルナ。まあ、ともかくな、これはファウストのグレートヒェンだ。とはいえ当時の時代を考えればこの画の不自然さが目につく。何故この女はこんなにこぎれいなんだ?そしてその裏の文字。」

「フォリ・・・焦らすのは止めて」

じれったそうにドゥの横顔を見つめ返すルナに、彼はルナの肩に手をかけたまま嗚呼、と艶めかしいため息を零した。

「たまんねぇな、その横顔。なぁ今回の報酬は精気のかわりにディープキス一つでいいぜ、お前に一回されたら俺しばらく想像だけでマスかいてられるわ」

「嫌よ変態。さっさと話しを進めなさい犬が」

その足をギリ、と強く踏みしめて睨み付けると、く、と苦々しげに唇を歪めたフォリはざぁんねん、とそれでも楽しそうに声を上げて、先程の画を見つめ返す。

「惚れた女に罵倒されるのもいいねぇ・・・まあいいや。とにかくな、この画はグレートヒェンの身近な人物の願いだったんだよ。それを家宝の様にかれらは扱ってきたんだ」

「・・・・・まさか」

ニンヤリと意地悪く笑った顔が、こちらを見つめた。

「その通り。ブラントの一族は、ゲーテが生涯に出会い、気にかけた女の一族だ。ゲーテが助けたくても助けられなかった、儚い命。いつからかは解らない、だがこの一族は魔女として扱われ、拷問の果てに死んだ者がいた。だから一族は願ったんだろうな、時よ止まれ、お前は美しい、と。悲しい願い、もはや一生叶わない願いを。時が巡り、一族で麗しく悲しい戯曲のヒロインの名前を付けられた女は思ったんじゃあないか。異端審問官がいなければ、魔女は死ななかった。私たちは死ななかった。」

手のひらをテーブルに押し付け、こちらの肩に手を置いて画面を覗き込むフォリはあくまでその口元の笑みを消さなかった。

「・・・・彼女は・・・・本物の魔女・・・なの?・・・・」

「さあ・・・?そこまでは分かんねえな。」

「・・・・・罪の象徴を片付けたら、女神が来た・・・」

彼女に会った時に言っていたあの言葉。女神。彼女の女神。大地母神。魔女の女神。その様子をフォリはニンヤリと見つめていた。

「可愛いお前の名前はRUNA。名前は違えど、月の女神の名。月の女神は、魔女の女神。くくくく、ルナ。わかったろう?僕らのルナ」

突如、ドゥの荒々しい口調が一変、落ち着きのある静かなものへと様変わりした。

「・・・・・急に出てくるのは反則ね、トロア」

その口調にしかし別段と驚きもしなかったので、ルナは冷静に彼―先程までフォリ・ア・ドゥだった者をチラリと見返した。見下ろしてくる彼のその瞳はいつの間にか蒼く変化している。彼はそしてゆっくりと口を開いた。

「ドゥだけに任せておくのは不安だったのさ。僕だって君と話がしたかったしね。」

ニッコリと綺麗な笑みを作り、ウインクをする。その口調、その笑顔の作り方も先ほどとはまるで別人だ。









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