何かを感じて振り返ったけれど、そこにある空には何もない。
一体何をしているんだろう。寒くもないのに両腕を抱え、その二の腕をさすった。こんな事をしている場合じゃない。薄暗い廊下の窓から見上げた空は酷く曇っていて、まるで見えない先を暗示しているようだった。ふう、とため息をつく。帰って来て今までの書類をひっくり返して蟻をも逃すまいと今洗い直している最中だと言うのに弱気になっている。
「何を迷っているの。こんな場合ではないのに」
自問自答するように口にするも、心に翳っている闇が晴れそうにない。
「戻ろう・・・」
くるり、足を自分のスペースに向けて歩き出した瞬間、ポケットにつっ込んでいた携帯がけたたましい悲鳴を上げた。慌ててとると直ぐに画面が出てきて電話主の姿をぼう、と浮かび上がらせた。金糸の長い髪を今日は珍しく降ろしている。
嗚呼。静かにため息をつきたい衝動を必死に抑え込み、―きっと向こうにもこちらの姿はあますことなく見えているだろうから―ルナは精一杯の笑顔を作った。
はぁい、私の可愛い可愛いエンジェルルナちゃ―ん。アタシからの電話を首を長くして待ってたでしょダーリン?
「ハニー、私の素敵なお医者様、モガリ=サラフィア。待ってたわ。さあ、私に良い報告を聞かせてね」
笑顔のままにそう言うと、彼はーもう自分の中では彼でいい―イヤだなんかイヤらしい!と頬を染めてかぶりを振ってからあのね、と切り出した。もうそこら辺の所作には突っ込むまい。
呪医の件だけれど、やはりアタシのツテで適任者は見つからなかったわ。
「モガリ?私は良い報告を聞かせて、と押したはずよ」
何だと、と言う事とやはり、という思いが交錯して、若干切れ気味な口調でそう言うと、モガリはだからゴメンって言ってるでしょ、と申し訳なさそうに呟いた。
でもね、貴女、聞けばベナンダンディを傍に置いているらしいじゃない。ベナンダンディも魔術にかけられた人間を診たり癒したりしていたのだから、呪医に近い行為は出来る訳よ。アタシがあたらずともそうした方が早くなくて?
それを聞いてルナは一瞬動揺したが、次の瞬間には視線をあさっての方向に向けて考え込んだ。しまった。確かにそうだ。どうしてそれが回らなかったんだろう。動揺か、それとも。
嫉妬、ってか
くすり、と画面の向こうで低い笑い声が聞こえて、ばっと見下ろした。女を魅了する端正な顔が面白そうにこちらを見つめている。
「貴方、実はテレパシーでも使えるんじゃないの」
そんな事できるもんか。見てれば分かる。恋する乙女の顔をな。
「次そんな悪臭漂う溝(ドブ)につっ込みたくなるセリフ吐いたら殺すわよ」
やっだールナちゃんツンデレー。面白いけれど、私情は挟んじゃ駄目よ
急に真面目になるモガリの表情に反抗する様に、ルナは分かってる、と吐き捨てるように画面に言った。分かってる、そんな事。
じゃあ、本人とは話を付けられたらいつでも来ていいわ。ただ、遺体になにかあってもコトだから、アタシは管理人としても見張りとしていさせてもらうわよ。
「一般人に遺体を見せる気?」
そんな事も言ってらんないでしょ、おバカさん。アドバイザーとして付けているコトくらいコッチだって知ってんのよ。オギがそう言う風に貴女に与えたのは、いずれベナンダンディの力が必要になる、と感じたからじゃない。あの方は使えるものは何でも使う方なのよ。・・いざとなれば記憶消しなり何なりできるわ。まあベナンダンディにそれが効けばいいけれど。
「・・・・オギにも判断を仰ぐ。それから決めるわ」
不貞腐れるように俯くルナに、画面越しのモガリは顔をしかめて彼女を諌めるように優しく鋭い言葉を放つ。
すぐになさい。貴女のその迷いが、余計な死者また一つ生みだす要因にもなるのよ
―分かっていた。
モガリからの電話を切り、次にオギにコールをして出てもらうと、彼はいつもの様に冷静な声でこちらの要件を聞いた。カタコンベからのモガリの要件を伝えると、彼は電話の向こうでしばし考える様な間を持たせた後、かまわん、とただ一言それを告げた。
使えるものは、使う。今回の件を解決したいのは君も同じだろう?
「ですが、一般人になると・・・」
ためらう自分をよそにオギは変わらない口調のままに刃の様な現実的な言葉を刺しこんだ。
彼女は一般人かね?ごく普通の?普通に息をし、普通の生活をし、普通に死ぬ?この世の異質さなど見ることなく幸せに、仲良しこよしで終わる一般人かね。私には分かっている。彼女はベナンダンディだ。少なくとも一般人よりは意外な、そして異質なものを数多見てきている。だから私はこの事件に関わる事も許可した。事件の解決を優先させる。分かったね
とん、とデスクの上を彼の指が滑る音が耳元にそっと忍び込む。彼の瞳が音を通しても見えるようで、その冷たい雰囲気を感じ取ってぞくりとした。
兎に角、とかすれた声が零れ出て、思わずその場で身を固くした。
早急に事を進めなさい。私から彼女に話を通してもいい。
「いえ。私から話をつけます。貴方にご足労はさせません。」
期待しているよ・・・嗚呼、それと
「はい?」
・・・・いや、いい。ともかく、良い報告を期待している。それでは
何かを言いかけて止めたオギはそう言って真っ先に電話を切った。静かに切れた電話口を見下ろし、ルナはじっとしたまま思考する。何故今彼は何かを言いかけて止めたのだろうか。言いたい事があれば言えば良かったのに。
「・・・気持ち悪いわ・・・」
喉元に詰まったような圧迫感に、無意識に喉を撫でた。そしてそれを振り切る様に首を振って、ルナは自分のオフィスへと歩みを進めた。
NEXTBACKHOME