彼のアジトは自分でさえ知らなかった。ヴィネから知らない方がいいと言われ、彼自身がトロアの身体を直接ヴィネのオフィスに運んでくれた様だ。質素な簡易ベッドのある部屋に通され、ルナは愕然としてそのベッドに横たわる金髪の美麗を見下ろした。その瞳は今や閉じられ、時折瞼がピクピク動いている。人間が夢を見ている時の動作にそれはよく似ていた。
しゃがみ込んで、冷たく冷えた左手をそっと包み込む。
「トロア・・・・」
背後からヴィネが静かに口を開いた。
「容体は今は安定している。と言ってもこちらは容体の面倒・・・脈だったり熱だったりしか診れないんだが。後は本人の持ち次第だな。私たちに今出来るのは、ただ見守る事だけだ」
「・・・・そう、ですか」
「意識がある最中、うわごとのように言っていた。ルナが危ない。危ないとな。魔術の力を持った者が意識の中でドゥを攻撃したようだ。この二人狂いは精神を破壊されるととんと弱い。彼らにとってこの肉体はこの現世において一種の通信手段、或いは外交手段に過ぎん。だが精神を破壊される、そうならぬ様に注意を払っていたのにも関わらずこの有様だ。余程の衝撃の事を見つけたのかもしれん。或いはドゥが避けきれない程向こうが強かったか」
「・・・・ドゥが戻る可能性は」
その問いに対する答えは酷く暗い物だった。俯き加減のヴィネの顔には影があった。
「・・・正直、低い。最初に読みを行っていたのはヤツだからな。もし戻らなければ、或いはドゥ自身が消えているならば、その能力はトロアに引き継がれる。そうしてまた新たな人格が生まれるのを待つ。新たな二人狂いとなる。それが彼らの理。理解せよ、とは言わんが、もしそうなれば・・・受け入れろ」
「・・・・・・」
残酷な現実を耳に入れながら、ルナはぎゅ、と。ただ目の前の人物の手を握りしめる事しか出来なかった。分かってはいる。二人狂いは、一人では居られない。
ビーッ!
けたたましい音を立てて緊急の連絡が突如鳴り響いた。ぼんやりとした頭でそれを取れば、カインがその顔を歪ませて画面に現れる。ぞわ、と嫌な予感が走った。画面の向こうのカインが伏し目がちな瞳を少し持ち上げ、重苦しく口を開いた。
取り込み中悪い。今しがたオギから連絡が入った。・・・・例の事件だ。また関係者がやられたらしい
「!・・・・保護するように言っておいたのに!」
隙を突かれた。今日の夜に保護する人間が到着する筈だったんだ。・・・現場データを送る。俺も直ぐに乗せて行ってもらう。現場で落ち合おう
自分の安らぐ日はまだ遠いらしい。ルナは携帯を閉じ、ベッドに眠る二人狂いの唇にそっと己の唇を落としてからヴィネに視線をくれ、静かに部屋を後にした。
・
くっそ寒い日に、とんでもない朗報が迷い込んだ。強いて言うならばそんな気分だ。この時代のこの地域は雪こそは振らないだろうが、それでもこれには耐えられない。通報によって知らされたこの現実にルナは震えが止まらないままだった。
小さな川のほとりに荒々しく作られた木の十字架に括りつけられたその死体は、氷漬けだった。その胸元には一輪の薔薇が差され、おまけに自分にはその氷の粒子にまみれた端正な美貌に大変見覚えがあった。
「ルナルド=シオン・・・・しまった・・・・ホントに・・・」
自分の楽園が殺された事に静かな涙を流していたあの青年。今頃は楽園に出会えていれば良いのだけれど。見よう見まねで十字を切って、冥福を祈る。
氷漬けにされた瞬間死んでいれば良いけれど、そうでなければ死亡時間の特定には困難を極めるだろう。殺された本人の苦痛を思うなら、氷漬けであっては欲しくないが。でもそんな時間はない。目の前に立ち、肌に張り付きそうな程冷たい木の棒に手を滑らせた。同時に意識を今は亡き死者の記憶にもぐりこませていく・・・・
―・・・・とぷん。
・・・・・ジジジジジ・・・・・意識の奥で誰かが・・・ジジ・・・「・・・ああどうか」あの顔・・・あの美貌・・・・シオン・・・自分の部屋で縛られて?・・・
「どうか・・・・この結界が・・・効いていてくれ・・・そしてあの子が・・聞いていてくれ・・・」・・・何回も暗転する・・・繋がって・・・シオン・・・
「・・・Sat mihi si ultimum audire(サット ミィシィ シィ ウティウム マウディル)」・・・シオン・・・?霞がかった瞳・・・それがクローズアップされる・・・蒼い瞳・・・
「Reprio・・・Reprio Bice(リぺーリオ ビーチェ)」
・・・・シオン・・・貴方は・・・私が読む事を知っていて・・・「Interrogavi・・・(インテロガ-ヴィ・・・)」消えゆく瞳の光・・・
―・・・ハッ・・・
意識を元に戻して、必死にその記憶を留めて手帳を取り出す。彼は何を言っていた?恐らくは聞きとられない様に、敢えてあの言葉にしたのだ。自分にも分からぬ、犯人にも分からぬと信じた言語で。書き取って見て見直すが、どうも不安だ。
「ルナルド=シオンは確か魔女の家系だったな。少し力があった様だ。何か術がかかっていて、魔術系に疎い俺には読めん。しかし・・魔女殺しとは」
傍らのカインが苦々しく見上げて呟いた。そしてルナの方を見返すと、どうだった?という表情で見つめてくる。瞳を閉じて、先程のシオンの瞳から光が消えていく様を思い出す。
「そうね、少し力があったみたい。結界がどうの言っていたから。それと何かメッセージを残していた。聞き取れたけれど私には何だか分からなくて・・・音を聞き取ったのを書き出して見たんだけれども」
「貸してもらえるか」
そのまま手帳を渡すと、カインはそれをしばらくじぃ、と見つめた後に更に何かブツブツと呟いてから書き足して此方に返してきた。おそらく、そんな感じだろう。言われて書き足された部分を見直す。
Sat mihi si ultimum audire(サット ミィシィ シィ ウティウム マウディル)
Reprio Bice(リぺーリオ ビーチェ)
Interrogavi・・・(インテロガ-ヴィ・・・)
「訳すとだ」
それを見つめているルナに応じる様に、カインが間を割って解説を加えてくれる。
「どうか聞いていてくれ月。探せ・・・ビーチェを探せ。頼んだよ・・・」
「ビーチェを探せ・・・ビーチェ?」
何回も呟いて、首を傾げる。恐らく人名だろう、とカインが横から言った。
「BiceはBeatrice・・・ベアトリーチェの愛称だ。しかし・・・関係者にベアトリーチェなんていたか?」
「いえ・・・今の所・・・改名している人間が居る?」
「かもな。それか・・・また抽象的な表現かも」
しかしシオンの残したダイイング・メッセージですら曖昧で抽象的過ぎる。また詰まってしまった感がでて、思わずため息が出た。しかし、しばらくその場で現場を眺めていた時カインが何かに気がついた様にハッと顔を上げた。
「違う・・・これも戯曲だ、ルナ」
その紫電の瞳には確かな確信が宿っている。カイン?と聞き返せば、彼はその節くれだった指をすう、と川に向けて言った。
「現場の川、・・・・そしてシオンの死因は凍死。そしてシオンの最期の言葉、Reprio Bice(リぺーリオ ビーチェ)=E・ビーチェを探せ。これは、・・・これは、ダンテの『神曲』に出てくる場面だ。地獄の最下層コキュートスで、最大の罪、裏切りを犯した者が『氷漬け』になっている、その場面だ」
「しん、きょく・・・」
またか。また、戯曲なのか。頭の中はそれだけだった。ファウストが悪魔の戯曲ならば、こちらは神聖喜劇。神と、悪魔。頭がおかしくなりそうだ。
「と言う事は・・・シオンは犯人を知っていた・・犯人に加担していたのね。でも裏切った。そう言う事ね・・・そうね、魔術を扱う者が犯人で、魔女の家系を探していたのなら、シオンが魔女だって知っていたし、力を持っていた事を知っていたのなら・・・この事件は一人では出来ない。脅して加担をさせて、ってことか・・・」
「彼のエデン・・・ベルナールを殺した事件は、もしかしたら犯人に彼を取られていたのかもしれないな。ベルナールを殺されて激情して、裏切ろうとしたのかもしれない。部屋に手掛かりが残っていれば・・・」
「神曲のベアトリーチェは作者の幼少期に出逢った女性を崇拝化したモノ。犯人に取ってのベアトリーチェを探せばいいのか・・・」
ビーチェを探せ。ビーチェ・・・ベアトリーチェ。もしかしたら意外と近くに答えがあるのかもしれない。
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