闇の中に浮かぶ街を街下から見下ろしている自分は、いつかこの柵を飛び越えてしまうのではないだろうか、と言う気さえ覚えてくる。
この街は異界だ。誰もが気が付いていないだけで、実際は酷く異界だ。
その異界の主―自分の使えるあの人は、そんな自分の考えすらも軽くあしらうのだろう。
「・・・・アベル様は、所詮私には眼もくれないのだ」
分かっていた事実を口にしても、それは事実以外の他ならない。
皺を刻んだ両手を見つめる。人間として確実に歩んできた道のりを示すそれを、今は何故か苦痛にしか思わなかった。
「何故・・・私は人なのか・・何故・・・アベル様は私を変えては下さらぬのか・・・」
その答えを彼は幼い声でただ一つ、寂しいからだよ、と言っていた。悲しい顔で、そう言っていた。その真意を今でも図る事は、難しい。
あの幼子の様な身体にして、今この警視庁をひそかに見守っている吸血鬼。アベル=ブラン。カインと対の存在でありながら、全く異なった存在。
―そもそもね、僕はカインの後に生まれた。そして僕は、ただひたすらにカインを訴え続ける存在として此処に在るんだ。だから―僕はカインをいたぶってきた。
―ならいっそ己自身で手を下せばよろしいのでは?わざわざこの私を介さずとも貴方にはその力が在る。そうでしょう。
―馬鹿だねぇ、オギ。
―僕は、書物の因縁になんか縛られていたくないのさ。考えてご覧よ、僕はずっと、ずぅ―と―カインを訴え、その喉を枯らしてきたんだ。自分自身にも分からない、この胸の内から湧き上がる訳のわからない憎悪を、ずーぅっと抱えて生きている。自分でも分からないんだよ。そんな身のならない行為の、何の得があろうさ。でもね、逃れない。逃さないんだ。神とやらは。
―僕はカインを残して先に死ぬ。それが運命。それが本望。
―そうなる事を僕は知らず望んでいるんだ。
「アベル様・・・貴方は結局聖書の通りになろうとしている・・・」
ぎゅ、と握りしめた拳を胸元に押さえつける様に当てる。切ない。あの人が唯、切ない。そう思った。
・
「やっぱり結界が張ってある・・・」
そっと扉に指先を触れればすぐさまばち!と稲妻のような物が扉を舐めた。慌てて手をひっこめたが少し肌を焼いた様だ。痺れる指先をぶんぶんと振ってルナは顔をしかめた。
あれから直ぐにルナルド=シオンの部屋に捜索に来た方がいいと踏んだので向かってみたらこの有様。隣のカインは先程から扉の前に立ってむっつりと口をつぐんでいた。やはりだめらしい。
ふむ。
ひとしきり思考が循環した後で、今回は幸いにも着いてこれた―これは本人の言い方だが―部屋の扉をじい、と見つめていたヴィオが、ねえ、と扉を指差しながらこちらの方に顔を向けた。
「コレ、破れるけど」
「はっ・・・?!」
声を上げたのはルナ自身だったが、何よりカインが驚いていた。可哀そうな彼はそっとしておいて、ヴィオに問いかける。
「・・・・出来るの?」
「?・・・うん」
「どうしてだ・・・嗚呼」
思い当たったらしいカインが苦虫をつぶした様な顔をして右手を顔に当てた。嗚呼、そうか。遅れて自分も気がつく。
「・・・貴方も半分そうだったものね」
そう言えば忘れてたわ。躊躇いがちにそう言えばカインの方も同意だったようで一つ頭を降ろした。何だよ揃って!むっつりしたヴィオがわあわあと喚く。
「そうだよ!半分魔女の血混じってんだって!くそこの野郎自分だけが何でも出来ると思うなよ!」
「・・・それは悪かった。何でも出来るんで忘れてた」
「もうお前死ね!」
「生憎と死なないのでな」
嗚呼、どんどんおかしな方向に・・・ルナは目の前で始まり掛けている喧嘩に思わずため息をついた。いや、こんな場合じゃない。気を取り直して面を上げる。
「落ちついてよヴィオ。別に貴方を卑下している訳ではないのよ。それで、この結界破れるのなら今やってほしいんだけども」
慌てて声を張れば、ヴィオが仕方ないと言いながらボリボリと頭を掻き、扉の前に立つと、掌を扉に突き付ける。
「ちょっと危ないから離れててよ」
そう言って瞳を閉じる。少しして扉の方に変化があった。ぽう、と青白い光がシュン!と音を上げて何かの魔方陣を描くと、その途端に鏡の割れる様な音を立てて破裂した。
パリィン!!
破片がヴィオへと降りかかったが、彼はその場から動かずにそれを浴び、やがてゆっくりとその腕を降ろした。怪我はしていないようだった。
「だ、大丈夫なの?」
「へ?うん。思ったよりしっかりしてたけど、もう開くはずだよ。多分自分が死んだ後に結界が効く様にしていたんじゃないかな」
コツ、と扉を拳で叩きながら彼は呟いた。その場に静かに息を吐く。どうやらあの空気に少なからず呑まれていたらしい。少し落ちついた後に、ルナはそのまま扉に手を掛けた。
そこら辺に普通にあるマンションの一室なのに、そこは昔ながらの木の扉だ。一番魔術になじみやすいと言った所なんだろうか。だからこそ此処は術が掛けやすいのに違いない。
(死を覚悟した時に、おのずからこの部屋へと引き込んだ・・・)
助けられなかった分、せめてその意思をくみ取らなければならない。思いを新たに部屋へと足を踏み入れた。
そこはすっきりと物がまとめられた飾り気のない部屋だった。デスクやPC、ベッドもあるから恐らく自室にでも使っていたのだろう。何か手掛かりはないだろうか。そこかしこを目視し、気配を探る。
mensis・・・(メンシス)
デスク付近をうろついていると、不意にそんな声が聞こえた。
「・・・!しまった!」
気がついたその途端に意識を引っ張られ、ルナは勢いよくその海に沈んだ。
真っ暗の闇の中にこの部屋の光景が見える。その中で倒れ込む影がある。あれは・・・!
掠れた瞳がぼんやりと唇を開く。
mensis・・・探して・・・ビーチェを探して・・・
―蒼い瞳が・・霞んでいく・・・待って!ビーチェは誰・・・!
向こうは・・・もう逃げない・・・君は分かっているはず・・・思い出して・・・そして・・・
―待って!待って!シオン!
僕たちの・・・無念を晴らして・・・・
「ルナ!!」
―・・・ハッ!!
気がつけば床に倒れ込んでいたらしく、左右から二人が焦った様にその顔をのぞかせていた。まだ視界がはっきりとしないが、何とか大丈夫そうだった。先程の映像がまだ瞼に残っている。いつでもたっても起き上がらないルナに、心配そうなヴィオの声がかかる。
「・・・ルナ?」
感情が、先程までの映像があまりにも切なすぎたせいだ。なんで、なんでなんでなんで。
―なんで、私は救えないの。
「・・・俺が抱えていこう」
戻ろう。静かなカインの声が響き、身体の下に両手が差し込まれ、身体が宙に浮く。カインの匂いが近くになって、胸が更に詰まった。鼻の奥がじん、と痛くなる。自分の無力さが歯がゆい。その力の無さがむなしい。何が能力者だ。人も救えず見殺しにするなぞ、化物も同じだ。
己を罵るルナに、カインはそっと声をかけ、ルナの腕を顔に移動させた。
「今だけだ・・・帰ったら策を練りなおそう」
「・・・・・うん」
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