「…魔女キルケーはオデッセイウスに警告した。
『セイレーンの島を避ける事は出来ない。だが、その歌を聞く者は全て滅びる。
船乗りたちの耳を蜜蝋で塞ぐように。あなたは聴いても良いが、マストに身体を縛り付けていなさい』…オデッセイア。
元々鳥の姿であった彼女達が19世紀には下半身魚の姿で描かれ始めたのは海神信仰も起因しているのではないかと言われるが定かではない。
様は、彼女たちは異質であれば良かったんだろう。異質な存在こそが人を恐れさせ、そして信仰に歩み寄らせる。
人魚は異質であればよかった」

パラリ、と分厚い本の一ページを繰り、銀髪の若き隻眼の若者は薄暗い部屋のソファーに身を沈めて静かにそう口を開いた。
コチコチコチ…室内には八角柱の振り子時計の音が響いている。
彼のそんな知識の披露の様な呟きに、ややあってぴくりと頭を持ち上げて訝しげに眉を寄せる影があった。
オリーブの瞳がゆるりと気だるそうに持ち上がると、手元に持っていたタブレットから指を離して口を開く。

「……急になんだ。駄犬」

「駄犬はお前だろう、狼。オデッセイアのセイレーンの歌の項だよ。
人魚が人魚たる地位を確立したとも言える話じゃないか。駄犬はこんな事も分からないかい」

ふん、と荒々しく鼻息を漏らし、片目の若者―二つである魂の片割れを取り戻した青年、フォリ・ア・トロアは乱暴にそう呟いた。
セイルはやぼったそうに再度彼を見ると、タブレットを片手に持ちながら静かに口を開いた。

「…何を、知っている?」

「うん?」

それに対しまるで知らぬ存ぜぬ、といったにこやかな顔で微笑むトロアの表情を、セイルはため息をついて見つめた。

「…ルナは人魚の所にいるのか」

「……」

「沈黙は肯定を意味する、と見るが、しかし『人魚』か…厄介だな」

両手を頭の前から差し込んで髪を梳き、中ほどで止める。そのまま頭を抱えて、深く今度はため息をついた。
そんなセイルを、トロアは変わらない笑みで見つめ、そして声を発した。

「……君の主は、なんとなく気がついてはいるみたいだけれどもね」

「…ならいい」

そしてそのまま掌で顔を覆った。その感情の波は平坦で、妙なブレもない。トロアは横目で彼を見、そして心中でひっそりと呟く。

(…さすがは狼の右腕、といった所か…)

多少の事では動じず、主をひたすら信頼する。それには自分に似たものを覚えずにはいられないし、むしろ尊敬の意すら覚えそうになる。

「…人魚が悲恋の生き物だなんてのは迷信だ。あれは己の楽の才を持って人々を死に導く。
…一体あの男、ルナに何をさせようというんだ」

「……さあ」

トロアが首をすくめると、セイルはガバッと身を起こしてトロアを見た。その瞳には怒りが籠っている。

「…お前にも分からないというのか。駄犬がっ!」

「…うるせぇな。駄犬なのはそっちだろぉが! 少しは落ち付けや!」

いつの間にかドゥに変わっていたその身体は、怒りを込めてセイルの胸倉を掴みあげる。
その身体にはもはや力など残っていない。それに構わずにドゥが怒鳴り散らす。

「俺らだって愛しい女の身を案じてるんだ! 月の女神が影を隠せば、俺ら怪物は動揺せざるを得ない。
お前だけがキャンキャン言ったって現実は変わんねえよボケ!」

そのままギリィ、と胸倉を掴みあげて上に持ち上げるドゥの瞳が途端に変わり、トロアが姿を現してその手を離す。
重力に従って地面に落ちたセイルの身体はぐったりとうなだれ、しばらくしてか細い声が聞こえた。

「……すまない」

「いいさ。君のルナに対する心が分かるからこそ、僕達もそれを無下には出来ない。
僕らはいつも届かない月を求めて必死にもがく、哀れな怪物達だから」


投げかけた問いに答える声は、その場には無かった。








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