―そして今の状態に至る。 老執事は依然として口を閉ざし前を歩いているので何を考えているのか分からない。彼も人魚の一族の一人なのだろうか。 永久に生きる事の出来るという噂は本当なのだろうか? そうならば彼が年を取る必要もない気がするが… 「お嬢様はこの一族の事をご存知でしたか」 ぼんやりと考え事をしていたルナに、突如老人のそんな問いが降りかかった。 顔を上げて前を見ると、執事服の彼がいつのまにか立ち止まり、品定めする様な眼差しで片方の側だけ顔を向け、こちらを見つめていた。 冷静になれ―こちらの惑いを悟られてはならない―落ちつかせる様に心の中で唱えてから、ルナはそっと唇を開いた。 「…長い、歴史のある一族だと。お名前の通りに、人魚に関わりのあるとは察しましたが…」 それを聞いた途端、執事の彼はふ、と口元にわずかな笑みを浮かべた。 「…そう。歴史はありますね。……お嬢様は人魚のイメージをどうお持ちです?」 「人魚のイメージ? ぱっと言われて…アンデルセンのおとぎ話が浮かびます。後は…セイレーン」 視線を上に向けながら考えてそう答えると、執事は先程からたたえた笑みを絶やさぬままそう…と呟いた。 「人魚というのはその伝説を辿れば古代バビロニアにて崇拝されたオアンネス、という男神―海神から来ているとされています。 オアンネスはその後ペリシテ人に受け継がれて半人半魚の神ダガンにもなった。 シリアでは月の女神アタルガティスが半人半魚の神として崇拝されました。 男に冷たくされて湖に身を投げた娘が、魚の尾を獲得し女神になったーこの女神は川や海の豊穣をあらわし、 海の女神の泡から生まれるヴィーナス女神の系統の原形になったのではないかとも言われます。 また、お嬢様が言われたセイレーンは紀元前6世紀にはギリシアの壺に顔は人間、身体は鳥の姿で描かれている。 セイレーンは元々鳥の姿だったそうです。それが時を経て鳥から上半身裸体の姿へと変貌を遂げた。 それはセイレーンが海の神であった名残を残しているからとも言われますが、その大元になったのはやはり『オデュッセイア』でしょうな」 「…トロイア戦争の帰るオデュッセイアの航海をえがいた叙事詩…でしたか」 その辺の知識はまるでないので、おそるおそる口にしてみると、果たしてそれがあっていたのであろう、執事はその顔に更なる微笑みを浮かべて頷いたのだった。 「セイレーンの島に近づいた時、オデュッセイアが魔女キルケー忠告を受ける。 船乗りたちには蜜蝋で耳を塞がせ、貴方はマストに縛り付けられていろ≠ニ。そしてその時が来る。 セイレーンたちはその美声をもってオデュッセイアを惑わす。しかし船乗りは耳に蜜蝋を詰め、 オデュッセイアはマストに縛り付けられていたために彼女らの惑わしを受ける事はなかった。 その結果にセイレーンたちは憤り、海に身を投げ、その身体は魚になった…」 「あの…おっしゃりたい事の意が私にはまだ分からないのですけれど…」 「お嬢様」 カツ、と靴音を響かせて、執事がくるりとこちらを振り向く。その顔は先程の笑みを失い、至極真面目なそれを貫いている。 「この老いぼれがおっしゃりたいのは忠告にございます。人魚は決して可愛らしいものではない。人魚はいわば死の使いなのです。 その美声で船乗りたちを惑わせ、船を落としたセイレーン。気に入った男を引き込むローレライ。 滑らかな姿態に酔いしれた人間は皆―死の世界へと誘われました。その呪いなのでしょうか、このマーフォーク一族は…至って女性が少ない。 お気をつけあそばせ。美しいお嬢様…」 「こらこら、そんな事を言って、淑女を困らせるものではないよ爺。貴方はそんな人ではないはずだ」 二人の間を遮る様に、良く通るテノールがその場に響き渡った。 驚いて二人ともその方向を見やれば、黒のスーツに身を包んだ長身の人間がそこに立って緩やかな微笑みを浮かべている。 その姿を捉えた執事はその背をビシリと折り曲げてすぐさま礼の姿勢を取った。 「これはシャトラール様。お呼び頂ければ参じましたのに」 「結構。貴方に煩わせる程でもないよ。それに」 プラチナブロンドの髪の間からベイビーブルーの瞳がちらりと覗いて、そして細くなった。 薄い唇が残月の様につりあげられて白皙の美貌を彩った。 「こちらの麗しいシンシアを自らがお迎えに上がられた事が出来たから幸運でしたよ」 そう言って再びそのベイビーブルーの瞳を向けてくる。室内の灯りを取りこんだ淡い青が一層輝いて見えた。 しばし固まった後、ルナは先程の彼の言葉を反芻して首を傾げた。 「…ルナと言います」 そう言うと目の前の彼はああ、と合点がいったようだった。 「キーツ『エンディミオン』に出てくる女神の名前です。 牧民が彷徨いながら求めた月の女神の名に相応しい程麗しい淑女で思わずその名が出てしまいました」 「貴方は…」 問いかけると、青年は失礼しました、としなやかに腰を折ってお辞儀する。 「シャトラール・マーフォーク。この一族の当主を務めさせていただいています。 麗しいお嬢様、ルナールナとおよびしてよろしいですか。ようこそこのマーフォーク一族へ」 目の前で折り曲げられた長身を目の当たりにして、ルナは慌てて広がるスカートを摘みあげて膝を少し折った。 「ルナです。今回はお招きありがとうございます」 「いいえ、ルナ。お礼を言うのはむしろこちらの方。貴女をお招き出来た事、光栄に思います」 その笑みは天使の様に慈愛に満ちて優しく、見る人の心を虜にしていく眼差しだ。 ゆっくりと手を差し伸べて無言で促してくるので、ルナは一瞬ためらった後、黙ってその手に己の指先を乗せた。 「結構。参りましょうか」 淡いブロンドの髪の間から彼のベイビーブルーの瞳が一層輝いて魅了した。
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