実際に直接人に聞いた訳ではなかった。あれは入学して一週間程たった頃だっただろうか。
翠の言っていたあの「学校の伝説」を私は図書室で偶然に聞いてしまった事があった。否、偶然と言うのは言い方が悪い。正しくは「盗み聞きしてしまった」だ。
学校内であまり人の出入りがなく、1人おちつける場所を求めていた自分は吸い寄せられるように図書室の扉を開いた。
それまでお世話になっていた小さな本屋には悪いが、広範囲に程良く渡る蔵書量にすっかり満足した私は、気に入った棚の前に立つと視線を彷徨わせて本を探した。しばらくそこで発見した本を読みふけっていると、後から入って来ていたのであろう、他のクラスの子が二人で後ろの棚の方で本を見ながらひそひそと会話をしていた。
いつもなら別段気にする事のない、私にとってなんら変哲もないその光景に、何故かその時引かれてしまった。わだかまりのような罪悪感を心に置きつつ、彼女たちの話に少し聞き耳を―盗み聞きしてしまったのだ。春のうららかな陽気とは全く無関係だと言わんばかりの、あのしっとりとした空間の中、棚に並んでいる本たちの目が全てこちらに向いているような気がしていた、あの空間で。

「・・・この大学の伝説って知ってる?」

「何それ。しらなーい・・」

「あのね、昔石榴館って言うお屋敷があってね・・・」

彼女たちの会話に耳をそばだてながら、私はいつの間にかその『石榴館』の話の虜になっていた。話を聞きながら、屋敷がどんな佇まいであるとか、娘が殺された雨の日の惨劇とか、母親が狂っていく様とかをありありと想像することが出来た。
ぞわりとした。なんでこんなにリアルに光景が浮かんでしまうのか。
その後、伝説の話をして少ししてから彼女たちは図書室から出て行ってしまった。けれども私は何か、『予感』を抱えたままその場に立ち尽くしていた。
私は話から想像してしまった光景だけに驚き、そして次に自分が話を聞きながら取りかけていた本の表紙に目を這わせ、更にぞわりと背中の下から上に這い上がっていく悪寒を止める事が出来なくなってしまったのだった。

その本のタイトルは『石榴』。

這わせていた指を思わず戻したが、しばらく震えが収まる事はなかった。




                  *********************


それから自分自身で想像したあの光景を、幾度となく夢に見る様になってしまった。

雨の日の木々に囲まれたレンガ造りの洋館の前に佇む私のシーンから、娘の部屋に切り替わり、雷の鳴った瞬間に照らしだされる異形の眼。そして血の海。そこで夢は終わる。
勿論それは悪夢以外の何物でもない。うなされる度にじっとりと汗が伝い、気分は至極悪い。
しばらくはそれが悩みの種だったのだが、ある日を境にその夢が変化した。
それは、その夢を見てから半年後の、新月の時期だった気がする。というのも、自分でたまたま見た月齢が新月だったかも、という程度の記憶だからだ。雨が相変わらず降ってはいたけれど、例の娘の部屋はほのかな灯りが照っているのだ。そこに向かうと、私は少し飽いた例の娘の部屋、扉の前で一瞬躊躇する。しかし身体は自然とドアノブを握り、開けてしまう。
しかしその部屋に居たのは1人の片目の青年なのだ。彼は窓枠に座り、雨の光景をただぼうと見ているだけ。

しかしその青年には片目が無かった。

その右目があろう場所は、木綿の細長い布を、まるで包帯の様にぐるぐると巻き付けていた。濃紺の着物には漆黒の帯を巻いていた。足元の白い足袋が眩しい程に視界を焼きつくそうとして、思わず目を細める。

この雨ではどこにも行けぬ・・・生きる者も、そうでない者も

お前も・・・この景色に囚われていた・・・

故に・・・払ってやったのだが・・・また来てしまうとは

・・・・これも定め、というものなのかもしれぬ。

ぶつぶつと空間に独り言を呟くその青年をしばらく見てから、私は自然と扉の方に足を向けるのだ。
最後の扉の閉める瞬間、彼の眼が不意にこちらを向き、彼は微笑む。

また、逢おう

彼の言葉がまるで細胞の奥深くにまで染み透り、私は思わず振り返って彼を探すが、いつも夢はそこで終わる。



何故だろう。
そして彼は一体何なのだろう。



それを繰り返している。そしてこんな夢物語は、勿論翠には打ち明けてはいない。こんな話が好きな彼女には格好の話の種なのだろうが、どうしても話す気にはなれなかった。
だから、彼女に話を振られた時は正直ドキッとした。あの夢を思い出してしまったから。
あの深緋(こきひ)の瞳の青年を思い出してしまったから。

「櫻子?どうしたの?」

目の前でキャラメルマキアートを飲んでいた翠が不思議そうにこちらを見つめていた。
は、と我に返って慌てて何でもない、と首を振った。
あの夢を毎日見ている訳ではないけれど、たまに見ると妙にリアルなのだ。それが時々現実と非現実の区別がつかなくなる。あの青年が深緋の瞳で見つめてくるその様を、今でも思い出して不思議な感覚に陥る。夜目を閉じて眠る度に、誰かに呼ばれている感覚。そんな感じに似ている。

「櫻子?」

翠が私を見てまたもや呼んでいる。ごめんごめん、と笑ってまたカフェオレに口をつけた。今はそんな事考えていても仕方がないわ。
口に入った瞬間にコーヒー本来の苦みと混ざり合ってやってくるミルクの甘みに満足する。二口ほど飲んで少し心を落ちつけた後、今度は翠の話に耳を傾ける事にした。









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